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キワモノ・マイ・ハウス

 投稿者:久保AB-ST元宏  投稿日:2018年12月12日(水)12時16分3秒
返信・引用 編集済
  Oh Mr.つぶやきシローも、やっているのだろうか?ナベブルトン男爵 ever left alive in 1985, will ever do♪
>久保さん紹介してくれたブラック浦さん

■私をジミー・ペイジな歴史のページ。ナベブルトン男爵に紹介してくれたのは、どらーる坂本公雄翁かと思っていたら、
そーか!ブラック(笑)浦澤貴雅@美術フリーペーパー『elan』だったのかっ。・・・すっかり、忘れていました。がくっ。
実は私は、浦澤さんから原稿を頼まれて『elan』に書いたけれど、彼とはいまだに(?)一度も会っていないんだよね~。
そも&そも、まだ生きているのか?政治の闇に、もぐりっぱなしなのか?
■ナベちゃんが大阪に戻ってから、
2010年10月30日~1月30日に札幌芸術の森美術館で『美術評論家なかがわ・つかさ』展が開催されたんだよね。
今から考えても、地方の美術評論家で展覧会をやるなんて、すげえ企画だし、センスぐんばつ。
そこの展示の最後の最後に、『elan』が展示されていて、私は凍り付いたよ(笑)。
もしも、ブラック浦さんが中途半端な選挙に溺れず、どらーる坂本が死なず、久保が本気になっていて、ナベちゃんの画廊『エルエテ』が黒字(?)で、
この4人が同時期に結び付いていたら、北海道の画壇=美術界=美術史も、もっと面白くなっていたかも?とか(微苦笑)。
まぁ、ほんとに、超ニアミスな4人だったんでした~。

>ロック聴いてるだけでキワモノな中学の時にキワモノ中キワモノのクィーン

■うん。あの頃、北海道新聞の国際面(←文化面では無く~。)のコラムにキッスの写真が掲載され、
単なるキワモノ=ゲテモノな話題で、
確かに厚顔無恥な中学生の私は、その写真が怖かった(笑)。
その少し前にNHKで日本のバンドが化粧をして腰をくねくねして歌っていて、気持ち悪かった。もしかしたら、サンハウスかな?
そうそう、ロックってキワモノだった。
今回のキング・クリムゾン札幌ライブに私と一緒に行った方は、1952年に芦別市の炭鉱で産まれ高校まで過ごして、
1960年安保の時は、クラスメイトに「あんぽくん」とゆー少年がいて、彼を「あんぽ、反対!」と、からかって、
中学生の時に三島由紀夫の盾の会のユニフォームが話題になり、三島が割腹自殺したのにショックを受け、自衛隊に入り、
その後、クラッシック好きがこうじて音楽の教員になり、校長へ。
いわば、クリムゾンど真ん中世代なんですが、彼が言うには、
当時は「ロックを聴いている人は、マイナーでしたよね。
少し前にビートルズがはやり、すぐグループサウンズになり、
それから、あっ!とゆーまに、フォークの時代になり、みんな吉田拓郎とか聴いていましたから、
ロックなんて、誰が聴いていたんだろう?」ってな、ことらしいです(笑)。
その方と同じ高校の数年後の後輩が、今でも芦別駅前でロックバー『ディラン』をやっているのに、このロック格差社会(笑)!
ロックとゆー難民キャンプ『デリンジャー』へようこそ、なんだわなぁ~。

http://kyouhanshinbun.hp2.jp/index.html

 
 

思えばカモンちゃんとこ、紹介してから何年になるかしら。

 投稿者:ナベブルトン男爵  投稿日:2018年12月12日(水)08時34分5秒
返信・引用
  デリンジャーに久保さん初めてご紹介して、呑んで帰った後、次に呑みに行くと、カモンちゃんがやたら、私に久保さんの事をあの人は誰?何者?ってひつこくひつこく聞いて来てたの思い出しちゃった。
写真見てカモンちゃん元気なのが分かるし、久保さんとも愛し合ってるのも分かる^_^
クリムゾン大阪1日だけ行くつもりが物足りなくて、2日目も当日券で行っちゃったら、2日目が断然良くて席も良いし、ガラガラ…^_^
でここの書き込みも何年振りか?
あの久保さん紹介してくれたブラック浦さんの事も思い出しちゃった!
話変わって共犯新聞にあるように、ボヘミアンラプソディーは、映画館で観た方がいいのかな?私は観る気がしないんですよ。全く世の中はフレディフレディって言ってるけど、おまえら、最近知ってって思ってしまう。
あれはロック聴いてるだけでキワモノな中学の時にキワモノ中キワモノのクィーン(大体バンド名ネーミン自体キワモノ)なんて出て来て、わあいなんだこの変態っなのが、カッコいいってなってハマってしまうわけで、今見ても懐メロでしかない。しかし映画は同世代からも評判がいいので、良いのかな?って行くべきか行かざるべきか、だって最近は息子に付き合って、アニメしか観ないから、一人で映画館に行かないとダメだし。寂しいし…
 

The Letters

 投稿者:久保AB-ST元宏  投稿日:2018年12月 3日(月)18時12分10秒
返信・引用 編集済
  Picasso's Last Words (Drink To Mr.中野真吾)♪
>横浜市在住の知らない人からの手紙です。

■誰だろう。
すぐに思いつきませんが、むしろ私が知らない方の方が面白いですね(笑)。
私たちはインターネットに何度も裏切られながらも、手紙としてのインターネットにいまだにささやかな可能性を感じています。
私が中野さんと出会えたのも、このインチキな箱=インターネットのおかげですし。
だから、インターネットを私たち側からも裏切る回路として、手紙は有効なのかもしれません。
言い方を変えれば、インターネットを豊かにするのは手紙なのでしょう。
だから私は中野さんに夜高あんどん祭りのウチワとゆー手紙を送ったのですし。
札幌のススキノの地下に『デリンジャー』とゆーロック・バーがあるのですが、私はここにも毎年、夜高あんどん祭りのウチワとゆー手紙を送っています。
キング・クリムゾン札幌ライブの前乗りで札幌で呑んでいた私は、12月2日(日)午前2時過ぎ、2年ぶりぐらいに『デリンジャー』に行きました。
そうそう、キング・クリムゾンは札幌で1971年の曲「The Letters」をやりましたよ。

>不定形の塊である世界を、不自由な記号である言葉に写し取る

かたわとしての私たちが多様性の海に浮かんだり、沈んだり。
ここから先は、メディア論ですね。

>古本屋の外の100円のワゴンにあった「さようなら、ギャングたち」

■もちろん(?)私は1982年10月27日に発行した当時、すぐに買い、読みました。
高橋源一郎『さよなら、ニッポン ニッポンの小説2』には、伊藤比呂美『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』が「詩か?小説か?」で議論していますが、
まさに「さようなら、ギャングたち」はそうですよね。
当時、私は高田馬場の居酒屋でグーゼン出会った早稲田大学の学生数人と、文学論を戦わせたことがあり、
その時、「さようなら、ギャングたち」をどう評価するかも語られました。
その深夜、議論の勝者は、とーぜん私でしたが(笑)、最後に早稲田大学の学生が、
「君は、何学部だい?仏文?日本文学?」と聞かれた時に、
「私は、明星大学の経済学部です。」と答えたら、
品行方正な早稲田大学の学生たちは、とーぜん(がくっ。)私も早稲田大学の学生だと思った前提で長時間の議論をしていたよーで、
んで、とーぜん彼らは明星大学とゆー名前すら知らず、その場にいた私以外の全員が、「?」状態でした。
で、私は、その場に早稲田大学生だった町山智浩がいたよーな記憶もあるのです。

http://kyouhanshinbun.hp2.jp/index.html

 

手紙

 投稿者:中野真吾  投稿日:2018年12月 1日(土)22時41分27秒
返信・引用
  今日、家に帰ると手紙が届いていました。横浜市在住の知らない人からの手紙です。もしかしてと震える気持ちで封を開けると、ナカノ日報送ってほしいとのお便りと5枚の82円切手。間違いなく共犯新聞の読者の方からのお手紙と思います。久保さん、本当にありがとうございます。
もしもこの欄を読んでおられたら、横浜市の○○さん、ありがとうございます。うれしい夕刻をすごすことができました。郵便局が開いたら送らせていただきます。

>この本で高橋は答えにまでたどり着けない。では高橋は答えが分からないのか?いや、高橋は答えを分かっている。ただ、その答えを言葉にできないだけだ。言葉にしようとする純情が、文学だ。
  ↑
そうですね。言葉を使う人間というのは言葉を自由に操る人間のことじゃなくて、複雑怪奇な不定形の塊である世界を、不自由な記号である言葉に写し取ることを選んでしまった人間のことなんですね。とうていできるとは思えないそのことが、あるときほんの瞬間でもできてしまったと思える、それを忘れることができない人間なんだと思います。
先日年若い友人がメールをくれて、社会と自分との関連の理解しがたさ、違和感、無力感、その中で考え続けること…などが書いてありました。久保さんの「純情のアップデート」につながるるものを感じ、コピーしたものを添付ファイルにして送りました。
彼は古本屋の外の100円のワゴンにあった「さようなら、ギャングたち」で高橋源一郎を知ったのだそうです。

 

時間と空間を縮める2つの方法

 投稿者:久保AB-ST元宏  投稿日:2018年11月29日(木)00時16分37秒
返信・引用 編集済
  No words for Mr.泰弘さん's love♪
>北海道から日本の南端、西端まで

■私の沖縄は2015年元旦に続いて2回目なんですが、
ステーキ・レストラン『サムズ』に行くと、2015年と同じ畑地誉に、クリソツ!シェフが担当でした(笑)。
ここはチェーン店で、シェフが無数にいるのですから、これは、かなりの確率?
客の目の前でコショウの瓶を、くる&くる回すのが売りなんですが、前回は一度落としたんですが、今年はバッチリでした(笑)。
帽子がから白になっていたので、出世したようでした(笑)。

>小嶋日向守さんはコメント欄だけのお付き合い

■泰弘さんのブログを読むと、インターネットは時間と空間を縮めたと感じます。

http://kyouhanshinbun.hp2.jp/index.html

 

・・・・・

 投稿者:泰弘さん  投稿日:2018年11月28日(水)21時27分13秒
返信・引用
  > 久保AB-ST元宏さん、北海道から日本の南端、西端まで言ってこられましたか。
そりゃ楽しかった事でしょう。
今後、お力に成れるかどうか分かりませんが何なりと相談してみてください。よろしく・・

小嶋日向守さんはコメント欄だけのお付き合いなのですが「モノクロ写真のカラー化の達人で研究者」で「歴史に関する情報通」だと私は考察しております。
「日向守」とあるので宮崎県出身か? と思います。

https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/folder/989823.html

 

泰弘さんと小嶋日向守さんも私の戦友かも・・

 投稿者:久保AB-ST元宏  投稿日:2018年11月28日(水)17時14分56秒
返信・引用 編集済
  Don't complain it rains for Mr.泰弘さん and me Mamunia ♪
>辰澤昇道さんは、お祖父様が赴任地でたまたま出合った戦友ではないだろうか

■実は、私も泰弘さんが想像されのと、まったく同じ想像をしていました(笑)。
お名前の最後に「道」が付くのもお坊さんらしいですしね。
この手帳も、中盤は入院生活が書かれています。入院したおかげで(?)祖父の命と手帳が無事だったような気もいたします。
私は、祖父が戦地の病院前で数人と一緒に写っている集合写真を見たことがあります。
我が家のどこかにあると思うので、発見しましたら、また泰弘さんに見ていただこうと思います。そこから新しい情報も出てきそうですし。

>部隊名からある程度の活動状況が判ってくる

■なるほど!
あわてて、祖父の手帳をざっと見てみましたが、それらしい記載はありませんでした。
これも、写真など他の資料から分かるかもしれません。
それにしても、泰弘さんのブログ内ゲストブックで、私には見ず知らずの小嶋日向守さんが祖父の手帳の文字を熱心に解読していただいたり、
ありがたいことの連続です。
私は11月25~27日まで、沖縄、石垣島、竹富島に行ってたのですが、
その間に、泰弘さん&小嶋日向守さんが祖父の手帳を分析されていたことに、感激しています。
旅行に行く前に私は金子光晴ぜんぶ初版、ぜんぶ108円!しかも、まんだらけ。がくっ。『どくろ杯』を138ページまで読んで、そこにシオリをはさんでおいたのですが、
そこに書かれていた1930年の上海の赤甕の屋根を「干いた赤いかさぶたのようにそれはつづいていた。」と表現した詩人の言葉は、竹富島の風景のまんまでした。
そんな偶然も含めて、私の脳味噌はしばらく1930年代の中国をさまようことになりそうです。

http://kyouhanshinbun.hp2.jp/index.html

 

辰澤さんは戦友かも・・

 投稿者:泰弘さん  投稿日:2018年11月24日(土)18時50分26秒
返信・引用
  >久保さん、こんちは・・
辰澤昇道さんは、お祖父様が赴任地でたまたま出合った戦友ではないだろうかと思います。
出身を聞くと金沢市の持名寺の者だ、とかでご住職かではないでしょうか?
「ウチの菩提寺は金沢の林幽寺だ」と、意気投合して住所を書き留めた・・ではないかと思われますが如何?。
お祖父様は、北海道で出征し入営されたのでしたら、旭川115師団の連隊で訓練を受けられたと思われます。
ウチの親父は松山で訓練を受け満州牡丹江へ赴任しましたが、郷里へ送った軍事郵便には必ず部隊名が記入されており(岩6418部隊)、数年後南方のラバウルへ移動した時には(剛6418部隊)となっていました。部隊名からある程度の活動状況が判ってくると思われますが・・・
https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/10914464.html

山西省占領時↓
file:///C:/Users/FUKUSH~1/AppData/Local/Temp/ZAJ201512_003.pdf

https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/folder/989823.html

 

支那&ロケッツ

 投稿者:久保AB-ST元宏  投稿日:2018年11月24日(土)10時50分18秒
返信・引用 編集済
  Let me roll it to Mr.泰弘さん♪
>●●養部

■私たちが子どもの頃、オトナに届く手紙の表書きは、達筆すぎて、ほとんど読めなかったのですが、
いつか自分もオトナになったら読めるんだろう、と、根拠のない未来予想図を描いていましたが、
おかげさまで(?)ワープロ→PCの時代、もはや誰も、そんな文字を書かなくなりました。
この過程で、1980年前後に「丸文字」と揶揄される角を丸くした手書き文字が流通しましたが、あれも今から考えると、PC時代の準備だったよーな気もします。
つまり、これはグローバル化を準備した文字のユニバーサル化なのでしょうか。
コドモに読めない文字は、ガイジンに読めない。それじゃ、文字の意味が無いじゃん。ってな時代の無意識のニーズだったのでしょう。
しかし、同時に我々は何か巨大で重要で魅力的な文化を簡単かつ永遠に失ってしまったのも哀しい事実であると私は思います。
いずれにせよ、「達筆」時代に読み込んでいた郵便配達員は、優秀だったんだなぁ~と、今でも時々思います。

>私も親父の戦死までの事情を詳しく知らなかったのであらゆる資料を調べた経験から、久保さんのお力に成ればと思っただけです。

■あらためて、泰弘さんのやさしさ、能力、ロケットのようなスピード感に感謝申し上げます。
『共犯新聞』はブログではなくホームページなので、整理されておらず、アナーキーな紙面(?)で読みづらくて恐縮です。
その点も、泰弘さんの編集能力の高さに感心しています。
『共犯新聞』1面トップの記事は、定期的にガラリと変わります。
この連載は、毎月1回づつ、読み進め&解読進めしながら続けていこうと考えています。
ここに保存しておきますので、時折、泰弘さんにもご確認いただき、指摘事項などを気軽にご教授いただきたいとお願いい申し上げます。

「おじいちゃんの撃たれたい夜。支那事変」

>久保さんも金沢市の持名寺へお問い合わせされれば辰澤 昇道さんのことが詳しく判明すると思われますよ。

■なるほど。
その泰弘さんのご指摘で私は思ったのですが、当時は戸籍の管理で最も信頼があったのが、自分の寺だったのかもしれません。
明治期に人が大移動した後、さらに戦争や焼け跡で住所や、生死までが不安定になるので、役所よりも寺が戸籍の根拠にになったような気がします。
我が家も、林幽寺に行けば今でも、久保の墓へすぐに案内してくれますし。
だから私の祖父も、「辰澤 昇道さん」の住所(?)として金沢市の持名寺を書き留めたのかもしれません。

>「支那事変」の写真はココを見れば、当時は兵隊の顔まで判別できます。

■すばらしい。
お世話になっているついで(?)に、泰弘さんに教えていただきたいのですが、
昭和12~3年の支那事変が書かれた良書を紹介していただきたいのです。
私はとりあえず、11月4日に古本『目撃者が語る昭和史・第5巻・日中戦争』(新人物往来社)をブックオフで買って読みました。
よろしくお願いいたします。

http://kyouhanshinbun.hp2.jp/index.html

 

・・・・・

 投稿者:泰弘さん  投稿日:2018年11月23日(金)12時19分5秒
返信・引用
  > 久保AB-ST元宏さん
1面トップ記事も拝見しました。余りにもお褒め戴いてほぞ痒くなってしまいます。
私も親父の戦死までの事情を詳しく知らなかったのであらゆる資料を調べた経験から、久保さんのお力に成ればと思っただけです。
親父や友人からの読み辛い手紙の判読したりしましたので大体は判ります。↓
https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32976649.html

久保さんも金沢市の持名寺へお問い合わせされれば辰澤 昇道さんのことが詳しく判明すると思われますよ。
それから「支那事変」の写真はココを見れば、当時は兵隊の顔まで判別できます。↓
https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/folder/989823.html

https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/folder/989823.html

 

ご訪問ありがとう・・

 投稿者:泰弘さん  投稿日:2018年11月22日(木)19時31分13秒
返信・引用 編集済
  久保AB-ST元宏さん、
本日コメント戴いたので、ご返事の後ブログを拝見しました。
その中で、お祖父様の手帳の裏表紙の文字が草書の為、読み辛い部分(下記)
 ●●昇道
 持名る
 重慶市初●町
 北京兵站病院 ●●●部 受付係・・・は

縦書きの為、左から読むため
 北京兵站病院 ●●養部 受付係
 金澤市卯辰町 持名寺
 辰澤 昇道     と読めます。

(金沢市卯辰町 持名寺)を検索しますと実在しますので、
 そこの辰澤さんという意味でしょう。

https://blogs.yahoo.co.jp/y294maself/32731906.html#37837768

 

答え合わせから始まる問い。

 投稿者:久保AB-ST元宏  投稿日:2018年11月12日(月)11時03分35秒
返信・引用 編集済
  Leave Mr.中野真吾 alone, Mrs Vanderbilt♪
>共犯新聞ご転居おめでとうございます。

■まだ「転居」なかば
昨夜も、『共犯新聞』1面・最上段の、
みなさまの『共犯新聞』のアドレスが「お気に入り」アドレスの変更を、してね♪変わりました。This home page's address was changed !⇒http://kyouhanshinbun.hp2.jp/index.html
のアドレスに「index.html」を付け加えました。
なぜならば、昨夜の『共犯新聞』の更新が、うまく転送されなかったので、こーしてみたわけです。
「更新」は私のルールですが、「転送」は公のルール。
でも、この場合の「公」は、国家や権力の支配の下ではない。
だから、岩谷宏がインターネットの初期に関心を持ち、関連書を書いたり翻訳していたりしていたのでしょう。
で、この民間の「法の支配」(?)という新しい国家(?)に住む住人たちは、
今回の「Yahoo!ジオシティーズ」が来年の私の誕生日で終了=「いちやーめた」のよーな理不尽を理不尽とは言えない穴に住んでいます。
■また、『共犯新聞』ジオシティーズ・サーバーは私が管理しているものばかりではなく、
カナダのサカタが彼のジオシティーズ・サーバーで保存してくれている旧ゲストブック・ページもあるので、それも転居しなきゃならない~。
さらに、膨大なすべてのページに、膨大な『共犯新聞』ジオシティーズ・サーバーへのリンクが貼ってあるし、画像もあるので、
それらも手作業(!)で来年の3月31日までにやらねば、消えちまう。
IT社会とは、家内制手工業社会。
ううううう・・・・・・。

>大兄は村上春樹の熱心な読者

■私の村上春樹好きは、彼が私にとっての最初のデビュー作から読み続けている小説家であるから、が最上位の理由です。
さすがに私も彼の自己模倣などに「やれやれ。」だったことは何度もありますし、安原顕がボロクソに言い倒した時にも共感しました。
■そー言えば、私は安原顕がスーパーエディターを自称(がくっ。)していた当時の書評誌『リテレール』の熱心な愛読者でした。私の名前が載った号もあります。
『リテレール』がインターネットで「書評道場」をやっていた時の最初の「横綱」(?)が私でした。
当時、私はインターネット上に投稿し、それを不特定多数の読者がどこでも&いつでも読め、レスポンスも双方向も可能であることに大きな可能性を感じていました。
しかし、『リテレール』を運営する「メタローグ」の経営不振や安原顕の死などで、インターネット「書評道場」は何の前触れもなく消えてしまいました。
そーなる前までは、私の書いた数十篇の書評は、そこで常に読むことが可能でした。
ある時期は、『共犯新聞』よりも、そちらでの私がより「有名」でした。私の名前で検索すれば、そちらが優先されていた時期もありました。
が、突然の消滅で読めなくなったと同時に、私は自分が書いた書評を保存していなかったので、それも同時に消えたわけです。
ですから(?)私にとっての理想の『共犯新聞』は、私が死んでも残りここのゲストブックに誰かが書き込むことによって永遠に更新されることです。

>原田義人 訳「城」を読むと、ところどころ村上春樹の語調を感じる部分があるんです。

■で、もちろん
私も作品とは抽象化することである、と言ってるかのよう な、カフカという文学フィルター。その具体に触れることができるとすれば、この上ない文学的興奮だ。カフカが好きですので、もちろん読んでいます。

>村上春樹は15歳で「城」を読んでカフカの世界にはまったと書いている

■そうですよね。
また、さすがの村上春樹でもまだ15歳ではドイツ語は読めないので、ベテランの原田義人(はらだ・よしと、1918年8月5日~1960年8月1日、享年41歳!)訳で読んだ可能性も高いことでしょう。
もちろん、新潮では前田啓作訳ですが。
11月10日の日本経済新聞の書評欄で、歌人の斉藤斎藤が『日本語誤用辞典』を紹介していました。
『共犯新聞』得意の(?)よりぬき抜粋。

日本語を学ぶ外国人の、気持ちはわかる「間違い」がてんこ盛りだ。
「はやく子供ができたいです(バングラデシュ)」
「その人はこのちかくにのろのろして、何の悪事をするにちがいない(韓国)」
「私はこの映画見る後で、もし世界の中で戦争はない、いいわねと思いました(インド)」
子供が「ほしい」より「できたい」のほうが切実だし、「近所をうろうろしている」よりも「このちかくにのろのろして」るほうが不審者だ。
「戦争はない、いいわね」は、インドの人の脳内で、世界平和がいちど実現されている。
どの「間違い」もびんびん伝わってきて、フェイスブックなら「いいわね!」を押してしまいそうだ。


違和感のある翻訳の魅力に私が合点がいったのは、
リチャード・ブローティガン夜の直線は、曲がっている。『西瓜糖の日々』(藤本和子訳)を読んでからなんでした。
これを読むずいぶんまえに読んだ野崎孝訳のJ・D・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』(白水社、1964年)にも、確かに心地よい日本語の違和感がありました。
違和感を違和感のまま、整理せずに、いや、違和感として整理する(?)。
言葉の最前線とは、そーゆー、ひりひりとした現場のことなのでしょう。
村上春樹が翻訳から文学に入った理由も、そこであると私は思っています。
ですから、「村上春樹の良い読者ではない」方の多くは、
村上春樹の作品は彼が刺激を受けた違和感のある翻訳から学んだ器用さによって整理されすぎていて文学から遠くになってしまっているから、だと私は思うのです。

>ぼくが知らないだけで常識

■発見の順番に価値はありません。むしろ、発見には絶対的な価値がある、と私は思います。
ですから私たちは、ジョン・レノンや早川義夫や『共犯新聞』(がくっ。)を発見したのですし、発見し続けているのだと思います。
ほらっ、例の「三角食べ読書」。あれから私は、再び、高橋源一郎『さよなら、ニッポン ニッポンの小説2』(2011年、文藝春秋)を読んでいます。
「三角食べ読書」のおかげで、この違和感のまま整理されていないメンドクサイ文体の評論(?)が読みやすくなったからです(笑)。
また新しい一週間が始まりました。今週の『共犯新聞』は、言葉を考える週になりそうです(笑)。

http://www.geocities.jp/kyouhanshinbun/index.html

 

お引っ越し祝い

 投稿者:中野真吾  投稿日:2018年11月10日(土)23時01分39秒
返信・引用
  共犯新聞ご転居おめでとうございます。

で、お祝い代りに、お暇な際の脳トレのネタを。大兄は村上春樹の熱心な読者であると思いますのでお尋ねします。
大兄は原田義人訳のカフカ「城」(角川文庫)を読まれましたか?ぼくは村上春樹の良い読者ではないんですが、この原田義人訳「城」を読むと、ところどころ村上春樹の語調を感じる部分があるんです。
特に末尾近く、Kとぺーピーの会話の中にはっきり感じる気がします。少し引用すると

K「もし、あの子が私のところへもおってきたら、私は幸福だろうけれど、でも私はまたすぐ、あの子のことをほうりぱなしにし始めることだろう。そういうことなんだ」

K「君はたしかにいい娘だ、ぺーピー。でも、それを知ることはそんなにやさしいことではないんだよ」

K「ちがうよ、ぺーピー、たといあの子がそんな矢をもっていたところで、こんな近い距離ではそれを射ることはできないだろうさ」

ぺーピー「ねえ、あたしたちは三人きりでも退屈なんかしなかったわ。にがい人生を甘く楽しいものにしなければいけないのよ。人生はあたしたちにとってすでに小さいときからにがくされていたのよ」

ぺーピー「いらっしゃいよ、ねえ、あたしたちのところへいらっしゃい!あなたにはどんな責任も生じることなんてないわよ。あなたはあたしたちのように永久にあたしたちの部屋に結びつけられてしまうわけじゃないのよ」

ぺーピー「ここでは冬は長いわ。とても長い冬で、単調なの。でも、下ではあたしたちはそんなことをこぼしはしないわ。冬に対してはあたしたちは安全なのよ。でも、いつか春もくるし、夏もきて、きっとそのさかりのときをもつでしょうね。でも、今、思い出のなかでは、春と夏とは短く、まるで二日以上はないみたいよ。そして、その短い日々のあいだにさえ、いちばんすばらしい天気の日に、ときどき雪が降るのよ」

いかがでしょうか。村上春樹は15歳で「城」を読んでカフカの世界にはまったと書いているようですが、それはもしかしてこの原田義人訳じゃなかったのか、カフカの世界とともに、この原田義人の文体にとらえられてしまったんじゃないか…とか妄想しているわけです。(見当違いかもしれないし、逆にぼくが知らないだけで常識なのかもしれませんが)

 

奇々怪々

 投稿者:久保AB-ST元宏  投稿日:2018年10月24日(水)10時49分3秒
返信・引用 編集済
  Mr.中野真吾's a bluebird♪
>中島らも「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」と
>町田康「テースト・オブ・苦虫1」を購入したので、
>以前同店で買ったまま読んでなかった大槻ケンヂ「のほほん雑記帳」

■1984年12月30日(日曜日)に渋谷のライブハウス『ラ・ママ』で行われた、
オールナイト・ライブ『共犯新聞1984→1985ノンセクト・ラジカル・パーティ』に、
町田康@当時は町田町蔵と、大槻ケンヂ@筋肉少女帯が出演しています。
ちなみに、このライブには、あがた森魚さんも出演しています。
で、その当時、中島らもは雑誌『宝島』で脱力な戦略。「啓蒙かまぼこ新聞」を連載していたので、
まぁ、こちら側のヒトだったわけです(微苦笑)。
3は、魔法の数字~♪3は魔法の数字、とは、かつての『共犯新聞』の合言葉(?)でしたが、魔法は解けていないのでした~。

http://www.geocities.jp/kyouhanshinbun/index.html

 

天網恢恢

 投稿者:中野真吾  投稿日:2018年10月18日(木)23時05分38秒
返信・引用
  <どーせ、このコーナーは誰も読んでいないんだろーから
  ↑
ところが読んでるんですね~ 理解はたぶんできてないけど。
先日わたくし、岡山市のサブカル古本屋ながいひるで中島らも「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」と町田康「テースト・オブ・苦虫1」を購入したので、以前同店で買ったまま読んでなかった大槻ケンヂ「のほほん雑記帳」とあわせて、三角食べならぬ三冊継続読みをスタートしたわけです。
で、最初に買っていた「のほほん雑記帳」を一冊目に読んでいたところ、「中島らもにハズレ無し」「個人的には『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』がオレは好きだ」とありました。「泣ける。センチメンタリズムに」「オレは泣けて泣けて仕方なかった」とも。
いや確かに、こういう偶然、たまらんですね。
単なるごあいさつでありました。
 

憎みきれないログできないし

 投稿者:久保AB-ST元宏  投稿日:2018年10月 7日(日)21時52分26秒
返信・引用 編集済
  Jet I can almost remember Mr.中野真吾's funny faces♪
>たまたま検索した単語からのニアミスで共犯新聞に接近遭遇という可能性が消える

■私がインターネットを知ったのも、ホームページ『沼田町商工会青年部』(がくっ。)を作ったのも、同じ1998年でした。
ちょーど20周年ですね。
ご存知のように天才な私は最初からその機能の圧倒的な特殊かつ革新を、①検索、②リンクと見抜いていました。
書く前に筆を折っていた私は、今までのメディアには無い機能に飛びつき、書き始めたわけです。
そしてホームページの向こう側=裏側からは、同じ①検索、②リンクで『共犯新聞』を「発見」してくれた中野さんのような方や、
アブノーマル・ストリッパー私がパンク・バンドをやっていた1980年代に一緒にライブをしていた戸田と東京で33年振りに再会。関係者のよーに「再会」したやつらや、
私に気が付かれないように(?)無断無料愛読されている方々がいらっしゃいます。ありがたい。

>どうにかならないもんか

■私は同時にインターネット=ホームページのもう一つの特殊&革新な機能は、
私が死んでも『共犯新聞』はばけらった。幽霊のように生き延びる
であると期待も込めて想っていました。
それは、ペーパー・メディアは華氏451度で燃やされちまうし、デジタル・メディアは再生機械の更新により再生不可能になるのに対して、
インターネットは自身が生き延びるために抱えている情報と共に不断の更新をする自家発電システムであるために生き延びられる、と期待していたのです。
さらに、インターネット=ホームページには、ここのゲストブックのよーな掲示板システムがあるので、
無料無断愛読者たちが主催が死んで化石になっちまった『共犯新聞』であっても掲示板に書き込むことにより、永遠の更新=命が担保されるわけです。
そのためにも、記事が更新しなくても、「どこをどう探せばよいか途方に暮れる面」を準備しておくことで、
『共犯新聞』は永遠に新鮮であり、新たなゲストブックのカキコミを誘発し続けるのです。しめしめ。
私の脳味噌の中では、石森章太郎『サイボーグ009』のブラック・ゴーストの正体のよーに、
脳味噌が永遠に生き延びているイメージが、インターネットだったのです。
が、しかーーーーーし、私に期待という言葉と概念が似合わないように、インターネットであっても永遠は無いのでした~。

>「ろくでなし子」あれはきっと「おんなローリング・ストーン」

昨日の朝日新聞の書評欄で宮沢章夫が、
「すが秀実の『革命的な、あまりに革命的な』が語る1968年の、
たとえば新宿騒乱事件に見るような激しさを「ならず者の革命」として捉える態度と呼応していると読める。」
と、書いていました。
1968年10月21日の新宿ストリート・ファイティング事件の2カ月前に、
ザ・ローリング・ストーンズはシングル・レコード「騒乱マン」をリリースしていました。
「ならず者」とゆー言葉は、1973年4月17日に発売されたシングルとアルバムでイーグルスの専売特許となったようですが、
ザ・ローリング・ストーンズもそれに先駆けた1972年5月12日にアルバム『メイン・ストリートのならず者』を発売しているわけです。
語源からすれば、
「ならず者」=「どーにも成らない者」=「手に負えない者」、
「ろくでなし」=「陸(ろく)のように平らではない者」=「性格がまっすぐではない者」、
ってーことなので、地震が多い昨今は、「陸(ろく)のように平らではない者」の方がトレンディなので、「ろくでなし子」はいても、「ならず者子」はいないのでしょう。
英語ではどーかってーと、「ならず者」はご存知、「Desperado」ですが、
1994年にクリントン大統領が北朝鮮、イラク、イラン、アフガニスタン、リビアを「ならずもの国家」と指した時には、「rogue state」と言いました。
そー言えば、アブノーマル・ストリッパーが1983年ごろ渋谷のライブハウス『屋根裏』あたりでローグ=「rogue」とゆーバンドと対バンしました。
「ならずもの」=「rogue」=「陸(ろく)」≠「ろくでなし」と、今日の講義はここまで。がくっ。

>共犯新聞、大切です。

■『共犯新聞』1面トップ赤文字つぶやきに、
2018年10月2日 火曜日 午前3時59分 気温11.6℃←■『共犯新聞』サーバーの「Yahoo!ジオシティーズ」が来年の私の誕生日で終了する。さようなら、『共犯新聞』。
と、書かれた日に、
過去に『共犯新聞』のIT危機を何度も助けてくれた♪はぁぐれたぁ~・フロム・カナダァ~!サカタ@カナダと私の間ではこんなやりとりがありました。

うぇ~ん!Twitterトレンドのトップにジオシティがなっていたので、悪い予感をしつつ調べたら、なんと、来年で終了。がーーん。
『共犯新聞』のデーターがすべて消える。これもいい機会か?
もしくは、おすすめの引っ越し先があればご指導お願い申し上げます。

♪はぁぐれたぁ~・フロム・カナダァ~!私も昨夜読んで、あちゃーと言ってました。
苦渋の決断だったとえらい長い文章で、天下のソフトバンクが1人1ギガくらいのサーバー容量を維持できないわけがないんで、ひどいよねえ。
Googleなんて写真1枚で1ギガあるのを無限に保存できるんだから。

うぇ~ん!なんか、あったのかなぁ?
それとも、無駄な死んだホームページやデーターが超大量にあるのを不良債権処理(?)しようとしているの
かなー。
hp2が定期的にサーバーが不安定になるのも、
あれは、わざとで、ユーザーから問い合わせが無ければ、それをサインに不良債権処理(!)をしていたような気がするなぁー。

♪はぁぐれたぁ~・フロム・カナダァ~!世の中で唯一未来永劫頼りになるのはGoogleアカウントの15ギガなんだけど(それがなくなったらChromeとかGoogleのサービス全部が死ぬから)、
GoogleはWebサイト提供してないのよね。
Yahoo JPはやっぱり公企業じゃなかったということなんでしょう。Googleはその点えらい。威張ってるけど。

うぇ~ん!「GoogleはWebサイト提供してない」理由は、やっぱ、サーバーの不良債権の対策なのかなぁ?

♪はぁぐれたぁ~・フロム・カナダァ~!Googleはblogspot.comというブログサイトを買収していて、何か情報を発信したい人はそちらでと無償提供してるんだけど、
共犯新聞みたいなフリーフォームなWeb媒体はなにかリスクが高いのかもね。
ブログは文字と写真だけだけど、Webページはなんでもアップロードできるという違いがあるので。
つまり違法なものでも。

うぇ~ん!インスタ、facebookは広義のブログだしね。
「ブログ vs ホームページ」論は、『共犯新聞』ではブログが登場した直後の10数年前から論じてきたけれど、
それはホームページを葬って、管理しやすいブログで世界をフォーマット化しようという圧力に敏感だったわけだ。
「違法」の定義を保留のまま、この視点を延長すれば、これもまた自由論の範疇だから、ロックの問題だよね。

■で、『共犯新聞』のサーバーを引っ越しすればいいんだけど、
現在のヤフー・ジオシティーズがおすすめしていて、無料なのは、「XREA」1GB~、「スターサーバー」1GB~、「忍者ホームページ」500MB~で、
『共犯新聞』が現在も使っている第2サーバーの「hp2」も、無料なんです。
なぜ『共犯新聞』が無料にこだわるのかは、『共犯新聞』が目指しているのは、
私が死んでも『共犯新聞』は幽霊のように生き延びる、であるので、金の切れ目がホームページの切れ目になってしまってはダメなのです。私がケチだから、ではないのです。
で、そもそも、他のサーバーへ全データーをスムーズに移行する技術が私にあるのか?とゆー天才ならではの悩みもあるのです。がくっ。

http://www.geocities.jp/kyouhanshinbun/index.html

 

えらいことじゃないですか

 投稿者:中野真吾  投稿日:2018年10月 5日(金)23時12分11秒
返信・引用
  さようなら共犯新聞とか書いてあるので半信半疑でいたら、その後も「サーバー終了」とか書かれてあり…えらいことじゃないですか!
この膨大なコンテンツ(どこをどう探せばよいか途方に暮れる面もありますが)、ぼくがそうだったように、たまたま検索した単語からのニアミスで共犯新聞に接近遭遇という可能性が消えるかもしれないと考えると…やはりどうにかならないもんかと思ったりします。

話を変えます。「ローリング・ストーン」という言葉について「転がる石には苔は生えない」みたいな慣用句と聞いていたんですが、実はそれすなわち「仕事が長続きしない奴」のことと知りました。日本語にすると「ろくでなし」くらいのところでしょうか。
だとすると「ライク・ア・ローリング・ストーン」は「ろくでなしのように」、「パパ・ワズ・ア・ローリング・ストーン」は「父ちゃんはろくでなし」、「ローリング・ストーンズ」は「ろくでなしども」なのかと考えていて、気がつきました、少し前に世の中を騒がせた「ろくでなし子」あれはきっと「おんなローリング・ストーン」とか「ローリングストーン嬢」「ローリング・ストーンっ子」なんですね。
(もしかして沢田研二の「憎みきれないろくでなし」は???)

いややはり、共犯新聞、大切です。無責任発言ではありますが、いや、マジで。
 

「筋」可視化の技術論序説

 投稿者:久保AB-ST元宏  投稿日:2018年 7月14日(土)16時13分55秒
返信・引用 編集済
  Mr.中野真吾's searching everyone
For the band on the run . . .♪
>自分があろうとする自分になるために、自分の過去を再構成してまで自分の「筋」を貫こう

■私と中野さんが知り合うきっかけのひとつにもなった中島梓=栗本薫が1978年4~5月に執筆した未発表の私小説「ラザロの旅」が発見された、
と、2018年7月12日(木)の『日本経済新聞』社会面で報道されていました。
他紙でも報道されたのでしょうか?『日本経済新聞』だけ、だとしたら、なんだか面白い。
書かれていた内容は、大長編エンタメが得意な彼女にしては珍しい、純文学志向の内省的な私小説で、重度の障害があった弟を巡る苦悩、文学駆け出しの焦燥、葛藤が書かれているそうです。
この作品は出版社に持ち込まれましたが不採用になり、手書き原稿が自宅に保管されていたそうです。
作品の主人公は25歳の文芸評論家で、「書かなくては生きていけないようになっていた」と独白するシーンがある、とのこと。
■表現とは、「筋」の再構成なのかもしれません。
寺山修司のように虚構を偽悪的(?)に商売にしたのは、その戯画化のような沸点=極み(?)かもしれません。
この流れで、オウム真理教を並べるのは、なんだか私の趣味ではありませんが、今朝の『朝日新聞』で高橋源一郎が長文の寄稿をしていましたので、少し。
高橋源一郎の趣旨は、「『自分の考え』を持つな」=「正しさ」への「息苦しさ」=違和感。
彼の趣旨は、
・国家は、「『自分の考え』を持つな」=息苦しい「正しさ」の方向に向かいやすい
・反国家も、同じ
とゆー対比で浮かび上がってきます。
で、ここでの「反国家」はオウム真理教なんだけど、高橋源一郎が20歳の時に連合赤軍から「オルグ」された告白が説得力を持って浮かび上がってきます。
■ここからはいくつかの論点を導くことが可能ですよね。
たとえば、国家も「筋」であり、反国家も「筋」である。しかし、その両者の「手法」が同じであるケースが多い。
そこで、「筋」や「手法」を言語で「内省」しない者は、生理的に(=つまり、自動的=オートマチックに)自分の立場を部外者の位置に置いておく。つまり、参加しない。塔に登らない。
「参加しない。塔に登らない。」者を大量生産することが権力の意志であれば、それが完成した時に、革命は終わり、国家が生まれる。
■オウム真理教に関しては、小説家の高村薫は7月10日(火)の『朝日新聞』で、
日本社会はオウム真理教を「言葉にする努力を放棄した」が、すべての宗教の「信心は道理をやすやすと超えてゆく」からこそ、
非社会的・非理性的存在としての人間と宗教を、社会に正しく配置することの不断の努力」が必要である、と説いています。
■また一方で、文学死体愛好者(?)にとって有名な渡部直己(66歳)早稲田大学・文学学術院・教授が女子大生に行ったセクハラ調査が同時進行しています。
この件に小説家の星野智幸は今朝の『北海道新聞』で、
渡部のみならず周囲の複数の男性職員が女子大生に口止めを強要した事実を、安倍政権のルールを歪める手法に照らし、
個人の言葉を保証するはずの文学の現場で、それを殺す行為が行われたことに、私は深い怒りと絶望を覚える。」と断罪しています。
■以上、私が引用した中島梓=栗本薫、高橋源一郎、高村薫、星野智幸は、みな小説家であり、彼らが書いた内容は、そのまま文学論としても読めます。
それが、「筋」と失語症を超えてゆく希望だからこそ、またしても我々は文学を読むのでしょう。

>問い詰めることで他者を失語症に追い込んでいくことを拒否した者は「きみ」を見つけることができない限り、自分を語る=筋を可視化していくことはできなくなる。

■過渡期にこそ、可視化の技術論の研究が必要なのでしょう。
ご存知、『共犯新聞』では去年は転がる胆石♪ズルッと最近食べた美味いもの!ゴクリ!拉麺紀行!!を年間ブッ通しで1面に連載しました。
この連載は、まったく新しい言葉でラーメンを語る壮大な実験でした。つまり、文学や思想を語る言葉でラーメンを語ったのです。
おかげで1年で50杯以上のラーメンを食べて私は太りました(がくっ。)。つまり、ニーチェの「肉体は偉大なる理性である。」を自ら人体実験したのです(がくっ。)。
そして『共犯新聞』の今年の1面は、やっぱ、映画館で観たい♪映画、パラパラ・・・書物、転がる胆石♪グルメ、共犯音楽祭★Music~音という抽象芸術♪CDを交互に、ラーメンの言葉で(?)語っています。
つまり、「自分を語る=筋を可視化」である、とするのなら、「自分」とはひとつなのか?ひとつであるとしても、何らかの複合体の結果ではないのか?
ならば、「自分」を解体して、そのパーツをつまみだして見せる行為が、可視化なのではないのか?
つまみだされたパーツに一貫性が無くても、並べられたことによって可視化される「筋」を世間にさらし(=表現)、同時に自らにフィード・バック(=内省)すれば良いのではないでしょうか。
そーゆー意味では、中野さんが今年から始めた「思わず身体の外まで響く音を鳴らすなら」『暇刊!老年ナカノ日報』も、可視化の同志(?)であると私は想っています。

>失語症の「回路」から脱却していくために、真崎守は「筋」そのものから逸脱しようとした。

■より私なりの言い方に換言すれば、
それは、
「筋」が硬直した権力=「『自分の考え』を持つな」=「正しさ」への「息苦しさ」にならないように、逃げ惑う=band on the run . . .♪

>「従来の価値の体系と断絶している」文体、絵柄、音色、コードであり、それが発見、創出されるためには、時間の経過と(残酷ですが)世代の交代が必要

1980年代へのカウント・ダウンが始まりだした70年代後半にも、何の保証も&裏付けもない、そんな「希望」が熱のように起きていましたよね。
我々が「をたく」と呼ばれても、貧しい書斎に書物やレコードを並べている理由のひとつには、
本棚のパラパラ・・・本の配置を並べ替えたり、
ターン・テーブルに違う共犯音楽祭★Music~音という抽象芸術♪レコードをのせてみたり、
時には書物を捨て(笑)、街に出てはやっぱ、映画館で観たい♪映画館の暗闇に身を沈め、
新しいカレーを喰う、
とゆー疑似的な不断の「時間の経過と(残酷ですが)世代の交代」を生きているからだ、と私は静かに、しかも、ずっと、ずっと想っているのです。

http://www.geocities.jp/kyouhanshinbun/index.html

 

「筋」の存在と失語症

 投稿者:中野真吾  投稿日:2018年 7月 8日(日)01時12分43秒
返信・引用
  しばらく前に久保さんが書いておられた「筋」の可視化ということ、考えてみようとしていたんですが、可視化にまでいくとぼくの手には負えないので、とりあえず「筋」について思うことを書かせてもらおうと思います。

「筋」と言えば真崎守ですよね。これほど自分の中での「筋」にこだわった人は思い当たらない。「筋」に殉じようとしたと言ってもいいくらい。というか後期の「自分を抜けだしていこう」というふるまい自体が、「筋」からの逸脱への苦しい企図だったように思えます。「共犯幻想」は、まさに自分があろうとする自分になるために、自分の過去を再構成してまで自分の「筋」を貫こうとした者の物語です。
10年近く前「共犯幻想」を読み返す機会がありました。そのあと少しして気付いたのですが、この物語の中で「僕はなぜ(バリケードの築かれる塔を)登っていったのだろう」「君はなぜこの場所から降りていかないのか」という問いは執拗にくりかえされますが、「君はなぜここに登って来ないのか」「君はなぜここから降りていくのか」という問いは、おそらく一度も発せられていないのです。(読み返さずに書いています。もしあったらすいません)ここにはおそらく厳密な線が引かれています。

>1960年代の過剰さが「参加」の強制を生み(=たとえば、オルグ。)
僕が20歳前後であったころ、「学生運動」とその精神は、ほとんど目に見えないほどのものになっていましたが、しかし確かに存在していました。「あなたはなぜ、参加しないのか」「あなたはなぜ、発言しないのか」「あなたはなぜ、眼をそらすのか」何かが起こるたびに、あるいはただの何かのはずみのように、こういった問いがひっそりと発せられ、問われた者はうつむくばかりだったのです。それは言ってしまえばメドゥーサの首のような問いであって、この問いに見据えられたものは石になるしかなかった。70年代の後半から80年代はじめが暗かったとすれば、その理由の一部は間違いなく、この問いが多くの者を「失語症」にしてしまったからだと思います。この問いを共犯幻想は厳密に排除していました。

おそらくその理由の半分は「やってこようとしない者や去っていく者など相手にしない」ということですが、あとの半分には「人間は自分でも自覚できない欲求を抱いて、眼に見えない目的地を探すほかない存在であり、何かをしない理由~何かに価値を見出すことができない理由など、答えることができない」という認識があったのだと思います。

そこで、「共犯幻想」の4人のように「同志≠きみ」を持つことができたものは、「なぜ君は」と問うことにより、あるいは「ぼくが登って行った理由は」と語ることにより、自分の「筋」を語る=可視化することができました。では、どこにも「きみ」を見出すことができなかったものは、どのように自分の「筋」を語ればよいのか…もちろん、そんなことはできはしないわけです。問い詰めることで他者を失語症に追い込んでいくことを拒否した者は「きみ」を見つけることができない限り、自分を語る=筋を可視化していくことはできなくなる。つまり自分が失語症に陥っていくしかなくなるわけです。「死春記」の孤絶感と人恋しさは、このあたりからやって来るのかもしれないと思います。

その失語症の「回路」から脱却していくために、真崎守は「筋」そのものから逸脱しようとした。「浮浪雲」のようにあろうとしたかのごときふるまいは、しかしやはり身についたものではなかったように思います。抜け出そうという姿勢は逆に抱えているものの重さを示してしまっていました。必要なのは「ここにはまだない」「従来の価値の体系と断絶している」文体、絵柄、音色、コードであり、それが発見、創出されるためには、時間の経過と(残酷ですが)世代の交代が必要だったのではないでしょうか。
 

久保元宏は饒舌であると思うことについて

 投稿者:久保AB-ST元宏  投稿日:2018年 4月14日(土)16時28分9秒
返信・引用 編集済
  Oh no one ever left alive in 1985, will ever do♪
Mr.中野真吾 may be right
>僕は実は1990年ごろからの十何年か、友部正人と遠藤ミチロウ以外の音楽にはほとんど何も積極的に手が出ないという状態

■なんだか私も似ています(笑)。
私の場合は、「1990年ごろからの」数年間は、モーツアルトとマイルス・ディヴィスとジョン・コルトレーンばかりを聴いていました。
それはロックが1985年から一気につまらなくなったため、5年間の空白後にたどり着いたお勉強としての CD=文庫本時代への私なりの同時代性の回復でした。
「ロックの1985年問題」については、私は『共犯新聞』などに何度か書きましたので、中野さんもどこかで読まれているかもしれません。
私が友部さんのレコードを最初に手に入れたのは、
1983年に雑誌『音楽専科』社の編集室のすみに置かれていたサンプル・レコードの山からいただいた『にんじん』(1973年1月、URC、URL-1032)でした。
当時の私は『音楽専科』社のアイドル・ロック(?)グラビア月間雑誌『アリーナ37℃』に「アブノーマル・ストリッパー通信」とゆー連載をしていて、
毎月、銀座にある編集部へ原稿を届けていたのです。
当時の東京のライブ・ハウス・シーンは、
①ビート・バンド
②ニュー・ロマンチック
③おどろおどろしい系
④ハード・コア・パンク
⑤フリー・ジャズ系のアバンギャルド・ニュー・ウェーブ
⑥ヘビメタ
⑦おされなニューミュージック
⑧さわやか文化会系ニュー・ウェーブ
に分かれていて、それらのジャンルごとに歌われている歌詞の単語や語法が似ていて、そのジャンル分け成立っぷりが私には不快でした。
それま、まるで1960年代の政治セクトの分類分けのようで、私には気持ち悪かった~。
その整理されている受動態ぶりに気が付いていないくせに、能動的に表現している☆と勘違いしている自信過剰っぷりが。
つまり、これは表現が動脈硬化を起こした時の「紋切り型」の問題です。
ですから当時の私は友部さんの音楽をラジオなどで聴いてはいましたが、
10年前にすでに現代詩の手法で『にんじん』を創造していた友部さんに心地よいショックを改めて味わったのです。
■それから1985に札幌市で就職した私の楽しみは、
雑誌のように続けて発表された遠藤ミチロウの Michiro, Get the Help !『オデッセイ・1985・SEX』3連作を発売日に買って聴くことでした。
しかし、3作目の『GET THE HELP !』のツマラナサぶりと、
同年のP.i.L『アルバム』の保守回帰ふつーのハード・ロック化と、
同年の真夏のテレビで長時間生放送されたライブ『ウィ・アー・ザ・ワールド』の吐き気がするロックの葬式ぶりに私の「ロックの1985年問題」は確信されたのです。
ああ、またしても私は「ロックの1985年問題」を書いてしまった(笑)。
■私が初めて友部さんのライブを観たのは、1987年ごろでした。
札幌のライブ・ハウスでライブが終わり、客が出口へ向かう中、私は逆方向の楽屋へ向かいました。
私はつい2年ほど前まではライブ・ハウスでは客席よりも楽屋にいた時間が長かったので、自然に歩いて入っていったのですが、
その私のあまりにも、とーぜん風な動きにスタッフたち誰も止めず、楽屋で私は友部さんと2人だけで少し話し、握手をして帰宅しました。

>P-MODELが、そんなふうに持続し続けていたことを当時知っていたら、自分は何を感じたのか興味があります。

■確かに中野さんが感じたように、P-MODELのセカンド・アルバム『ランドセル』は、あまりにも戦略的過ぎ=マーケット的中だったのが、多くのロック原始人たちから違和感を感じられました。
それは、私も、P-MODEL自身も(!)そうだったようで、ベーシスト秋山勝彦くんをクビにしたサード・アルバム『ポプリ』は会心の名盤であり、この時点で私のP-MODELへの信頼は決定しました。
この1981年に私は東京でバンドを始め、さっそく渋谷のライブ・ハウス『屋根裏』へP-MODELのライブへ行ったら、満員で入れず、階段に座ってブラブラしていたら、
町田町蔵がやってきて、「入れへんのか?」と聞かれたので、うなずくと、彼は階段を降りて帰りました(笑)。
で、ライブが終わってP-MODELのメンバーが入り口から出てきて、楽屋がある3階へ向かい、数分後のアンコールで再びメンバーが入り口から入る時に、私は一緒に入り(笑)、
P-MODELライブ初体験をしたのでした(笑)。しかも、無料で。がくっ。
確か、曲は「MOMO色トリック」で、ちゃんと(?)レコードでの歌詞の「ユージさん」は「今野雄二」に、「アホのリノ」は「かたせ梨乃」と歌っていたなぁ。
で、この曲のエンディング間際に平沢進が「あたま!あたま!」と何度も叫んでいました。これも当時のライブだけの演出だったようです。
この町蔵とすれちがったり、ライブでレコードからはみ出す表現が存在することを実感した体験が、私にロックの現場が現実に存在することを深く刻み込んだのです。
んでも、私の一番好きな彼らのアルバムは、1984年に発売された『ANOTHER GAME』なんだけど。
そう&そう、P-MODELに私の弟が加入する前に、中野とゆーベーシストが加入するんだけど、彼はアブノーマル・ストリッパーの後輩なんだよね(笑)。
そこらへんのメンバーの相関関係(?)解説が、1990年代にリリースされたP-MODELのPV集の解説に私がらみで書かれていたりもしていました。

>言うべきことを発信しようとする以外の部分では妙にストイックで、自分の方からかかわりを持とうとすることが少なかった

■私は1970年代論を、「失語症」をキーワードに書いたことがありました。
すべてが過剰であった1960年代の反動として、1970年代を生きる人々が私の眼には「失語症」として説明できたのです。
それは、参加アレルギーと、今なら追加説明できるかもしれません。
1960年代の過剰さが「参加」の強制を生み(=たとえば、オルグ。)、1970年をはさんで「参加」についての「失語症」を蔓延させた、と。
ですから渋谷陽一に代表される1970年代以降の活動家(?)は、1960年代とは異なる「参加」のシステムを独自に作り出すことから始めなくてはならなかったのでしょう。
その分水嶺に屹立しているのが、
斎藤次郎一直線上の 視界の 上に『共犯の回路』とゆー一冊の本であり、
この本の「あとがき」には、「渋谷陽一がロック批評誌『ロッキング・オン』を1972年に創刊した」ことを希望としてふれていますよね。
ですから、中野さんの疑問は、論理の親だす。問い(?)「渋谷陽一は寡黙であると思うことについて」に私が答えるとすれば、
「渋谷陽一は失語症の時代を超克しようとした」のであり、
そのために、「参加」のシステムを更新することに取り組み、
そのツールとして有効だったのが、間接「参加」としてのメディア、だった。
直接「参加」=ダイレクトだが、広がりに限界がある。
間接「参加」=ダイレクトではないが、広がりは無限である。
つまり、めぐり合うことへの切実さ。そこは、ロックにラブ・ソングが多い理由であり(=出典;久保AB-ST元宏『共犯幻想』収録「ロック論」より)、
デヴィッド・ボウイの「Gimme your hands」ですよね。

>イターナウはどんな音を出していたんでしょうか。

■あそこまで70年代『ロッキング・オン』にのめり込んでいた中野さんがイターナウを持っていない=聴いたことが無い、ってのも驚きです(笑)。
あの時代、いったいイターナウを聴いていたのは誰なんだろう?
そして、彼ら&彼女たちは今、何をして、何を考えているんだろう?
それもまた、
間接「参加」=ダイレクトではないが、広がりは無限である。

>久保さんは以前「ヒップホップこそが現代のパンクだ」といったことを書いておられ、全く同じ趣旨

■今朝の朝日新聞の読書欄の冒頭には、仮装通貨を「反権威のパンク精神が源流」と書かれていましたよね(笑)。
時代は、紋切り型失語症システムを更新→ふりだしへ戻る→のループかもしれません。
つまり、どんな時代でも、どんなジャンルでも、言葉によって「時代を超克しよう」とする熱は存在するが、その「システム」=「器」=「メディア」が課題、とゆーこと。
もし、闘うのであれば、単に熱量の問題だけで終わるのではなく、闘いのシステムを構築しなければ、連戦連敗のままです。

>ロックは変容しながら存在し続ける

■つまり、そーゆーこと。

見も知らぬ他人に解き明かしていくということでしょうか

■うん。

http://www.geocities.jp/kyouhanshinbun/index.html

 

レンタル掲示板
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