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「筋」可視化の技術論序説

 投稿者:久保AB-ST元宏  投稿日:2018年 7月14日(土)16時13分55秒
返信・引用 編集済
  Mr.中野真吾's searching everyone
For the band on the run . . .♪
>自分があろうとする自分になるために、自分の過去を再構成してまで自分の「筋」を貫こう

■私と中野さんが知り合うきっかけのひとつにもなった中島梓=栗本薫が1978年4~5月に執筆した未発表の私小説「ラザロの旅」が発見された、
と、2018年7月12日(木)の『日本経済新聞』社会面で報道されていました。
他紙でも報道されたのでしょうか?『日本経済新聞』だけ、だとしたら、なんだか面白い。
書かれていた内容は、大長編エンタメが得意な彼女にしては珍しい、純文学志向の内省的な私小説で、重度の障害があった弟を巡る苦悩、文学駆け出しの焦燥、葛藤が書かれているそうです。
この作品は出版社に持ち込まれましたが不採用になり、手書き原稿が自宅に保管されていたそうです。
作品の主人公は25歳の文芸評論家で、「書かなくては生きていけないようになっていた」と独白するシーンがある、とのこと。
■表現とは、「筋」の再構成なのかもしれません。
寺山修司のように虚構を偽悪的(?)に商売にしたのは、その戯画化のような沸点=極み(?)かもしれません。
この流れで、オウム真理教を並べるのは、なんだか私の趣味ではありませんが、今朝の『朝日新聞』で高橋源一郎が長文の寄稿をしていましたので、少し。
高橋源一郎の趣旨は、「『自分の考え』を持つな」=「正しさ」への「息苦しさ」=違和感。
彼の趣旨は、
・国家は、「『自分の考え』を持つな」=息苦しい「正しさ」の方向に向かいやすい
・反国家も、同じ
とゆー対比で浮かび上がってきます。
で、ここでの「反国家」はオウム真理教なんだけど、高橋源一郎が20歳の時に連合赤軍から「オルグ」された告白が説得力を持って浮かび上がってきます。
■ここからはいくつかの論点を導くことが可能ですよね。
たとえば、国家も「筋」であり、反国家も「筋」である。しかし、その両者の「手法」が同じであるケースが多い。
そこで、「筋」や「手法」を言語で「内省」しない者は、生理的に(=つまり、自動的=オートマチックに)自分の立場を部外者の位置に置いておく。つまり、参加しない。塔に登らない。
「参加しない。塔に登らない。」者を大量生産することが権力の意志であれば、それが完成した時に、革命は終わり、国家が生まれる。
■オウム真理教に関しては、小説家の高村薫は7月10日(火)の『朝日新聞』で、
日本社会はオウム真理教を「言葉にする努力を放棄した」が、すべての宗教の「信心は道理をやすやすと超えてゆく」からこそ、
非社会的・非理性的存在としての人間と宗教を、社会に正しく配置することの不断の努力」が必要である、と説いています。
■また一方で、文学死体愛好者(?)にとって有名な渡部直己(66歳)早稲田大学・文学学術院・教授が女子大生に行ったセクハラ調査が同時進行しています。
この件に小説家の星野智幸は今朝の『北海道新聞』で、
渡部のみならず周囲の複数の男性職員が女子大生に口止めを強要した事実を、安倍政権のルールを歪める手法に照らし、
個人の言葉を保証するはずの文学の現場で、それを殺す行為が行われたことに、私は深い怒りと絶望を覚える。」と断罪しています。
■以上、私が引用した中島梓=栗本薫、高橋源一郎、高村薫、星野智幸は、みな小説家であり、彼らが書いた内容は、そのまま文学論としても読めます。
それが、「筋」と失語症を超えてゆく希望だからこそ、またしても我々は文学を読むのでしょう。

>問い詰めることで他者を失語症に追い込んでいくことを拒否した者は「きみ」を見つけることができない限り、自分を語る=筋を可視化していくことはできなくなる。

■過渡期にこそ、可視化の技術論の研究が必要なのでしょう。
ご存知、『共犯新聞』では去年は転がる胆石♪ズルッと最近食べた美味いもの!ゴクリ!拉麺紀行!!を年間ブッ通しで1面に連載しました。
この連載は、まったく新しい言葉でラーメンを語る壮大な実験でした。つまり、文学や思想を語る言葉でラーメンを語ったのです。
おかげで1年で50杯以上のラーメンを食べて私は太りました(がくっ。)。つまり、ニーチェの「肉体は偉大なる理性である。」を自ら人体実験したのです(がくっ。)。
そして『共犯新聞』の今年の1面は、やっぱ、映画館で観たい♪映画、パラパラ・・・書物、転がる胆石♪グルメ、共犯音楽祭★Music~音という抽象芸術♪CDを交互に、ラーメンの言葉で(?)語っています。
つまり、「自分を語る=筋を可視化」である、とするのなら、「自分」とはひとつなのか?ひとつであるとしても、何らかの複合体の結果ではないのか?
ならば、「自分」を解体して、そのパーツをつまみだして見せる行為が、可視化なのではないのか?
つまみだされたパーツに一貫性が無くても、並べられたことによって可視化される「筋」を世間にさらし(=表現)、同時に自らにフィード・バック(=内省)すれば良いのではないでしょうか。
そーゆー意味では、中野さんが今年から始めた「思わず身体の外まで響く音を鳴らすなら」『暇刊!老年ナカノ日報』も、可視化の同志(?)であると私は想っています。

>失語症の「回路」から脱却していくために、真崎守は「筋」そのものから逸脱しようとした。

■より私なりの言い方に換言すれば、
それは、
「筋」が硬直した権力=「『自分の考え』を持つな」=「正しさ」への「息苦しさ」にならないように、逃げ惑う=band on the run . . .♪

>「従来の価値の体系と断絶している」文体、絵柄、音色、コードであり、それが発見、創出されるためには、時間の経過と(残酷ですが)世代の交代が必要

1980年代へのカウント・ダウンが始まりだした70年代後半にも、何の保証も&裏付けもない、そんな「希望」が熱のように起きていましたよね。
我々が「をたく」と呼ばれても、貧しい書斎に書物やレコードを並べている理由のひとつには、
本棚のパラパラ・・・本の配置を並べ替えたり、
ターン・テーブルに違う共犯音楽祭★Music~音という抽象芸術♪レコードをのせてみたり、
時には書物を捨て(笑)、街に出てはやっぱ、映画館で観たい♪映画館の暗闇に身を沈め、
新しいカレーを喰う、
とゆー疑似的な不断の「時間の経過と(残酷ですが)世代の交代」を生きているからだ、と私は静かに、しかも、ずっと、ずっと想っているのです。

http://www.geocities.jp/kyouhanshinbun/index.html

 
 

「筋」の存在と失語症

 投稿者:中野真吾  投稿日:2018年 7月 8日(日)01時12分43秒
返信・引用
  しばらく前に久保さんが書いておられた「筋」の可視化ということ、考えてみようとしていたんですが、可視化にまでいくとぼくの手には負えないので、とりあえず「筋」について思うことを書かせてもらおうと思います。

「筋」と言えば真崎守ですよね。これほど自分の中での「筋」にこだわった人は思い当たらない。「筋」に殉じようとしたと言ってもいいくらい。というか後期の「自分を抜けだしていこう」というふるまい自体が、「筋」からの逸脱への苦しい企図だったように思えます。「共犯幻想」は、まさに自分があろうとする自分になるために、自分の過去を再構成してまで自分の「筋」を貫こうとした者の物語です。
10年近く前「共犯幻想」を読み返す機会がありました。そのあと少しして気付いたのですが、この物語の中で「僕はなぜ(バリケードの築かれる塔を)登っていったのだろう」「君はなぜこの場所から降りていかないのか」という問いは執拗にくりかえされますが、「君はなぜここに登って来ないのか」「君はなぜここから降りていくのか」という問いは、おそらく一度も発せられていないのです。(読み返さずに書いています。もしあったらすいません)ここにはおそらく厳密な線が引かれています。

>1960年代の過剰さが「参加」の強制を生み(=たとえば、オルグ。)
僕が20歳前後であったころ、「学生運動」とその精神は、ほとんど目に見えないほどのものになっていましたが、しかし確かに存在していました。「あなたはなぜ、参加しないのか」「あなたはなぜ、発言しないのか」「あなたはなぜ、眼をそらすのか」何かが起こるたびに、あるいはただの何かのはずみのように、こういった問いがひっそりと発せられ、問われた者はうつむくばかりだったのです。それは言ってしまえばメドゥーサの首のような問いであって、この問いに見据えられたものは石になるしかなかった。70年代の後半から80年代はじめが暗かったとすれば、その理由の一部は間違いなく、この問いが多くの者を「失語症」にしてしまったからだと思います。この問いを共犯幻想は厳密に排除していました。

おそらくその理由の半分は「やってこようとしない者や去っていく者など相手にしない」ということですが、あとの半分には「人間は自分でも自覚できない欲求を抱いて、眼に見えない目的地を探すほかない存在であり、何かをしない理由~何かに価値を見出すことができない理由など、答えることができない」という認識があったのだと思います。

そこで、「共犯幻想」の4人のように「同志≠きみ」を持つことができたものは、「なぜ君は」と問うことにより、あるいは「ぼくが登って行った理由は」と語ることにより、自分の「筋」を語る=可視化することができました。では、どこにも「きみ」を見出すことができなかったものは、どのように自分の「筋」を語ればよいのか…もちろん、そんなことはできはしないわけです。問い詰めることで他者を失語症に追い込んでいくことを拒否した者は「きみ」を見つけることができない限り、自分を語る=筋を可視化していくことはできなくなる。つまり自分が失語症に陥っていくしかなくなるわけです。「死春記」の孤絶感と人恋しさは、このあたりからやって来るのかもしれないと思います。

その失語症の「回路」から脱却していくために、真崎守は「筋」そのものから逸脱しようとした。「浮浪雲」のようにあろうとしたかのごときふるまいは、しかしやはり身についたものではなかったように思います。抜け出そうという姿勢は逆に抱えているものの重さを示してしまっていました。必要なのは「ここにはまだない」「従来の価値の体系と断絶している」文体、絵柄、音色、コードであり、それが発見、創出されるためには、時間の経過と(残酷ですが)世代の交代が必要だったのではないでしょうか。
 

久保元宏は饒舌であると思うことについて

 投稿者:久保AB-ST元宏  投稿日:2018年 4月14日(土)16時28分9秒
返信・引用 編集済
  Oh no one ever left alive in 1985, will ever do♪
Mr.中野真吾 may be right
>僕は実は1990年ごろからの十何年か、友部正人と遠藤ミチロウ以外の音楽にはほとんど何も積極的に手が出ないという状態

■なんだか私も似ています(笑)。
私の場合は、「1990年ごろからの」数年間は、モーツアルトとマイルス・ディヴィスとジョン・コルトレーンばかりを聴いていました。
それはロックが1985年から一気につまらなくなったため、5年間の空白後にたどり着いたお勉強としての CD=文庫本時代への私なりの同時代性の回復でした。
「ロックの1985年問題」については、私は『共犯新聞』などに何度か書きましたので、中野さんもどこかで読まれているかもしれません。
私が友部さんのレコードを最初に手に入れたのは、
1983年に雑誌『音楽専科』社の編集室のすみに置かれていたサンプル・レコードの山からいただいた『にんじん』(1973年1月、URC、URL-1032)でした。
当時の私は『音楽専科』社のアイドル・ロック(?)グラビア月間雑誌『アリーナ37℃』に「アブノーマル・ストリッパー通信」とゆー連載をしていて、
毎月、銀座にある編集部へ原稿を届けていたのです。
当時の東京のライブ・ハウス・シーンは、
①ビート・バンド
②ニュー・ロマンチック
③おどろおどろしい系
④ハード・コア・パンク
⑤フリー・ジャズ系のアバンギャルド・ニュー・ウェーブ
⑥ヘビメタ
⑦おされなニューミュージック
⑧さわやか文化会系ニュー・ウェーブ
に分かれていて、それらのジャンルごとに歌われている歌詞の単語や語法が似ていて、そのジャンル分け成立っぷりが私には不快でした。
それま、まるで1960年代の政治セクトの分類分けのようで、私には気持ち悪かった~。
その整理されている受動態ぶりに気が付いていないくせに、能動的に表現している☆と勘違いしている自信過剰っぷりが。
つまり、これは表現が動脈硬化を起こした時の「紋切り型」の問題です。
ですから当時の私は友部さんの音楽をラジオなどで聴いてはいましたが、
10年前にすでに現代詩の手法で『にんじん』を創造していた友部さんに心地よいショックを改めて味わったのです。
■それから1985に札幌市で就職した私の楽しみは、
雑誌のように続けて発表された遠藤ミチロウの Michiro, Get the Help !『オデッセイ・1985・SEX』3連作を発売日に買って聴くことでした。
しかし、3作目の『GET THE HELP !』のツマラナサぶりと、
同年のP.i.L『アルバム』の保守回帰ふつーのハード・ロック化と、
同年の真夏のテレビで長時間生放送されたライブ『ウィ・アー・ザ・ワールド』の吐き気がするロックの葬式ぶりに私の「ロックの1985年問題」は確信されたのです。
ああ、またしても私は「ロックの1985年問題」を書いてしまった(笑)。
■私が初めて友部さんのライブを観たのは、1987年ごろでした。
札幌のライブ・ハウスでライブが終わり、客が出口へ向かう中、私は逆方向の楽屋へ向かいました。
私はつい2年ほど前まではライブ・ハウスでは客席よりも楽屋にいた時間が長かったので、自然に歩いて入っていったのですが、
その私のあまりにも、とーぜん風な動きにスタッフたち誰も止めず、楽屋で私は友部さんと2人だけで少し話し、握手をして帰宅しました。

>P-MODELが、そんなふうに持続し続けていたことを当時知っていたら、自分は何を感じたのか興味があります。

■確かに中野さんが感じたように、P-MODELのセカンド・アルバム『ランドセル』は、あまりにも戦略的過ぎ=マーケット的中だったのが、多くのロック原始人たちから違和感を感じられました。
それは、私も、P-MODEL自身も(!)そうだったようで、ベーシスト秋山勝彦くんをクビにしたサード・アルバム『ポプリ』は会心の名盤であり、この時点で私のP-MODELへの信頼は決定しました。
この1981年に私は東京でバンドを始め、さっそく渋谷のライブ・ハウス『屋根裏』へP-MODELのライブへ行ったら、満員で入れず、階段に座ってブラブラしていたら、
町田町蔵がやってきて、「入れへんのか?」と聞かれたので、うなずくと、彼は階段を降りて帰りました(笑)。
で、ライブが終わってP-MODELのメンバーが入り口から出てきて、楽屋がある3階へ向かい、数分後のアンコールで再びメンバーが入り口から入る時に、私は一緒に入り(笑)、
P-MODELライブ初体験をしたのでした(笑)。しかも、無料で。がくっ。
確か、曲は「MOMO色トリック」で、ちゃんと(?)レコードでの歌詞の「ユージさん」は「今野雄二」に、「アホのリノ」は「かたせ梨乃」と歌っていたなぁ。
で、この曲のエンディング間際に平沢進が「あたま!あたま!」と何度も叫んでいました。これも当時のライブだけの演出だったようです。
この町蔵とすれちがったり、ライブでレコードからはみ出す表現が存在することを実感した体験が、私にロックの現場が現実に存在することを深く刻み込んだのです。
んでも、私の一番好きな彼らのアルバムは、1984年に発売された『ANOTHER GAME』なんだけど。
そう&そう、P-MODELに私の弟が加入する前に、中野とゆーベーシストが加入するんだけど、彼はアブノーマル・ストリッパーの後輩なんだよね(笑)。
そこらへんのメンバーの相関関係(?)解説が、1990年代にリリースされたP-MODELのPV集の解説に私がらみで書かれていたりもしていました。

>言うべきことを発信しようとする以外の部分では妙にストイックで、自分の方からかかわりを持とうとすることが少なかった

■私は1970年代論を、「失語症」をキーワードに書いたことがありました。
すべてが過剰であった1960年代の反動として、1970年代を生きる人々が私の眼には「失語症」として説明できたのです。
それは、参加アレルギーと、今なら追加説明できるかもしれません。
1960年代の過剰さが「参加」の強制を生み(=たとえば、オルグ。)、1970年をはさんで「参加」についての「失語症」を蔓延させた、と。
ですから渋谷陽一に代表される1970年代以降の活動家(?)は、1960年代とは異なる「参加」のシステムを独自に作り出すことから始めなくてはならなかったのでしょう。
その分水嶺に屹立しているのが、
斎藤次郎一直線上の 視界の 上に『共犯の回路』とゆー一冊の本であり、
この本の「あとがき」には、「渋谷陽一がロック批評誌『ロッキング・オン』を1972年に創刊した」ことを希望としてふれていますよね。
ですから、中野さんの疑問は、論理の親だす。問い(?)「渋谷陽一は寡黙であると思うことについて」に私が答えるとすれば、
「渋谷陽一は失語症の時代を超克しようとした」のであり、
そのために、「参加」のシステムを更新することに取り組み、
そのツールとして有効だったのが、間接「参加」としてのメディア、だった。
直接「参加」=ダイレクトだが、広がりに限界がある。
間接「参加」=ダイレクトではないが、広がりは無限である。
つまり、めぐり合うことへの切実さ。そこは、ロックにラブ・ソングが多い理由であり(=出典;久保AB-ST元宏『共犯幻想』収録「ロック論」より)、
デヴィッド・ボウイの「Gimme your hands」ですよね。

>イターナウはどんな音を出していたんでしょうか。

■あそこまで70年代『ロッキング・オン』にのめり込んでいた中野さんがイターナウを持っていない=聴いたことが無い、ってのも驚きです(笑)。
あの時代、いったいイターナウを聴いていたのは誰なんだろう?
そして、彼ら&彼女たちは今、何をして、何を考えているんだろう?
それもまた、
間接「参加」=ダイレクトではないが、広がりは無限である。

>久保さんは以前「ヒップホップこそが現代のパンクだ」といったことを書いておられ、全く同じ趣旨

■今朝の朝日新聞の読書欄の冒頭には、仮装通貨を「反権威のパンク精神が源流」と書かれていましたよね(笑)。
時代は、紋切り型失語症システムを更新→ふりだしへ戻る→のループかもしれません。
つまり、どんな時代でも、どんなジャンルでも、言葉によって「時代を超克しよう」とする熱は存在するが、その「システム」=「器」=「メディア」が課題、とゆーこと。
もし、闘うのであれば、単に熱量の問題だけで終わるのではなく、闘いのシステムを構築しなければ、連戦連敗のままです。

>ロックは変容しながら存在し続ける

■つまり、そーゆーこと。

見も知らぬ他人に解き明かしていくということでしょうか

■うん。

http://www.geocities.jp/kyouhanshinbun/index.html

 

渋谷陽一は寡黙であると思うことについて

 投稿者:中野真吾  投稿日:2018年 4月12日(木)00時14分50秒
返信・引用
  >なんせ、出てくる重要キーワードが、私と交差しまくり。
そう言っていただけるとうれしいです。「共犯リミッターの機能障害」を読んだとき、自分と同じものを見聞きして、同じようなことを考え、今も考え続けている人がいる!と震えるような思いをしたものですから。

>ちなみに私の弟は19歳の時にシロートとしてP-MODELライブを札幌へ招聘し、1990年代に芸名「ことぶき光」でP-MODELに加入します。
そうだったのか…。僕は実は1990年ごろからの十何年か、友部正人と遠藤ミチロウ以外の音楽にはほとんど何も積極的に手が出ないという状態だったため(別に嫌っていたわけではなく、何となく)ずいぶん何も知らない時期があるんです。あの彗星のように現れて消え去っていった(と思われた)P-MODELが、そんなふうに持続し続けていたことを当時知っていたら、自分は何を感じたのか興味があります。

日笠慎也さんも『蛍 ザ・ファイアー・フライ』も、僕は知りません。そういう表現がたくさんあったのか意外に少なかったのかはわかりませんが、それらのものたちは言うべきことを発信しようとする以外の部分では妙にストイックで、自分の方からかかわりを持とうとすることが少なかったように思います。これもロッキング・オンで言われていたデビッド・ボウイの「私を見るな。あなたの場所から私と同じものを見よ」とか、黙契であった「言いたいことがあるのなら言え。ないのなら黙っていろ」に忠実であったからだと言ってしまいたい気がします。言うべきこと行うべきことだけを続けていれば、出会うべき人には出会ってしまうはずだと、たしかに多くの人たちが考えていたのではないでしょうか。

FM録音聞きました。松村雄策のライブ、素晴らしいですね。「夢のひと」はもちろん「プライべイト・アイ」も作りすぎであると思い、もっとシンプルなロックで演奏すればいいのにと思っていましたが、それが聞けた感じです。ありがとうございます。イターナウはどんな音を出していたんでしょうか。

ところでその前のトークで渋谷陽一は、従来のロックに飽き足らない者たちが、いまパンク~ニューウェーブを作りつつあると言っています。
約40年が経ち、渋谷は先日のワールド・ロック・ナウで「現在ロックに意識的であろうとする人間は、ヒップホップを選ぶしかない」といった意味のことを言っていました。(久保さんは以前「ヒップホップこそが現代のパンクだ」といったことを書いておられ、全く同じ趣旨だと思いました)

考えてみると渋谷陽一はビートルズやツェッペリンのころから一貫して、「どんな優れた表現でも後から来る世代にとっては窮屈な枠としてしか登場できなくなる場面がある~後から来る世代は自分たちにとって自由と感じられる表現形態を生み出そうとするが、その際に従来の優れた表現は仮想敵として打倒の対象となる~その自らを打倒しようとする動きをも自分の一部として取り込むことによって、ロックは変容しながら存在し続ける」ということを言い続けてきたと思います。そうしてみると渋谷陽一は「評論」という方法をとった一徹な表現者であり、「評論家」としてのにぎやかで饒舌な語り口とはうらはらに、寡黙で静かな表現者であったと思うわけです。

>「筋」の可視化
すごいテーマですね。(自分が)何にこだわり何を尊いとするかについて、見も知らぬ他人に解き明かしていくということでしょうか。
 

「筋」の可視化

 投稿者:久保AB-ST元宏  投稿日:2018年 4月 9日(月)15時04分56秒
返信・引用 編集済
  Picasso's Last Words (Drink To Mr.中野真吾)♪
このテーマは、自由。記事に強く反応して、
岡山であったP-MODELのライブ(イン・スルー・ジ・アウト・ドアの発売前の音源を引っさげての渋谷陽一のトークライブ

■中野さんと言葉を交わしていると、時々、ひとりごと(?)のような気がすることがあります。
なんせ、出てくる重要キーワードが、私と交差しまくり。
スイッチだらけ。
地雷の夜。=児雷也。
1979年、松村雄策が日本コロムビアから出したばかりのシングル・レコード「GREEN LIGHT」発売ライブを札幌の大谷会館で行う!ってーので、
高校3年生の私は高校1年生の弟を連れて120km北の沼田町から行きました。
これが、私の初めてのプロ・ミュージシャン(?)のライブ体験でした。
この時、ライブの前座(?)が渋谷陽一で、細身の白っぽいスリー・ピースのスーツに長髪で、やたら色気があって、かっこよかった。
■今は、便利な世の中で、YouTubeで、
「1979年7月21日ON AIR 松村雄策 渋谷陽一 仙台FMリウエストアワー 」
ってのが聴けます。すげぇっすよね、これ。
たぶん、この7月の仙台 → 8月の札幌@久保兄弟参戦 → 10月の岡山@中野さん参戦、なのでしょう。
ですから、すでに1979年の段階で、私は中野さんとつ・な・が・っていたわけで。
上記の仙台では、まだレッド・ツェッペリンの新作『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』の音源は非公開、ってーのも、時系列リアル・タイムとしておもしれぇっすよね。
上記の音源では松村雄策のライブも聴けますが、これはまさに、私が1カ月後に札幌で観たライブと同じ構成です。
松村が呑みかけのバドワイザー缶を客席に蹴って、ライブは始まりました。
松村は前作のアルバム『夢のひと』の軟弱な音(?)からブギー色を濃くしたかったので、生き生きしていますよね。
たぶん、アルバム『夢のひと』で松村はジャックスを、渋谷陽一プロデューサーは歌ものを、アレンジャーはプログレを狙っていて、それが1978年の時代とは大幅にズレていたからねぇー。
こう書いていて、懐かしすぎるのですが(笑)、中野さんには安心して固有名詞を説明抜きで書き続けられる安心(笑)。
そも&そも、私は松村雄策が歌って、岩谷宏が歌詞を書いたカセット・テープのイターナウ『今がすべて』の全曲をイラスト詩集(?)として高校の新聞会の回覧ノートに直筆フル・カラー連載で描いた高校生でしたから。

>P-MODELとリザード、ARBが参加

■いやぁ、これはすげぇ。世界的に見ても、これらは1979年で観ておくべき3バンドですね。
ちなみに私の弟は19歳の時にシロートとしてP-MODELライブを札幌へ招聘し、1990年代に芸名「ことぶき光」でP-MODELに加入します。
1984年、アブノーマル・ストリッパーはARBと共演しました。
1979年の日本で一番人気があったパンク・バンドはストラングラーズだ、と上記のラジオで渋谷陽一が語っていますが、そのオコボレでリザード人気もありましたよね。私は引いてみていましたが。モモヨ(管原庸介)は今、何をやっているんだろ?

>79年10月ごろ、僕はロッキング・オン(特に岩谷宏)の影響をもろに受けて全投稿型同人誌

■『共犯新聞』にも書いたように、「当時の私は高校の新聞会で勉強もできないくせに(がくっ。)教師 ににらまれながら、
連日、教師が不快になる内容の新聞を全校生徒に向けて出しまくってい」ました。
それは、登校前の全校生徒の机の上に、教師の検閲を無視した号外を置いて回る☆とか。
かなり、やばい高校生ですよね(笑)。
■そう&そう、1978年秋の修学旅行で東京で大学生と待ち合わせをして、新宿レコードでニック・ロウのLPレコードを買ったなぁ。
その大学生は、西日本(?)出身の日笠慎也で、『蛍 ザ・ファイアー・フライ』ってミニコミをやっていました。なんでも高校時代に同名の人力飛行機、ハングライダーを飛ばしたとか?
その大学生と中野さんは世代も近いし、出身地も近いから、どこかでつながっていないかな?
あ、そのミニコミも共犯書斎にあります。私は、なんせ物持ちがいい。『ロッキング・オン』も1975~1987年は全冊、あります(笑)。

>単行本より雑誌の方がいいんだと思い、なぜかと聞かれると、雑誌は消えてなくなってしまうから

■分かるなぁ。すごく、よく分かる。
それって、P-MODEL≒平沢進の
「本当はソノシートで出したかった。その辺の店先にぶら下げられてあって”こ れちょうだい”ベリッ!とはがして買われるような。」発言と同じだし、
セックス・ピストルズがアルバム1枚で消えてなくなってしまったことに代表される、
ニヒリズムのその後を生きているかのような、誰もが「はやく80年代よ来てくれ!」と根拠なく声をひそめて放熱をひかえていた1970年代の終わりに向かう時代の空気ですね。
私もアブノーマル・ストリッパー当時、「何年も続けることが重要な時代では無くなったし~。」とファンの女子中高校生の前で言うと、
誰もが、私の発言には同意しなければいけないと思いつつも、「でも・・・。」と言い出しては、言葉があとに続かない時代でもありました。がくっ。
■そして&また、1984~1985年ごろ、アブノーマル・ストリッパーのファン数人(←みんな女子だったなー。)に渋谷だったかに呼び出され、
その日のテーマ(?)「今後のアブノーマル・ストリッパーについて」彼女たちが熱く語り合っている最中に、
私は、「(当時のアナログ版)『共犯新聞』は、どん&どん、いろんな人を巻き込んで行って、アブノーマル・ストリッパー色が消えてなくなってゆくのが好ましい。」と言うと、
女子どもは、とまどいだして、さらに私が「『共犯新聞』の編集を君たちがやるかい?」とお願い&提案をすると、その場が暗くなった☆よーな記憶があります(笑)。
ファンは、久保の表現に期待をしていた、ってことは、まぁ、ふつーに考えれば分かるけれど、
当時の私の関心の中心は、中野さんの「消えてなくなってしまうから」に近い同時代性だと思います。

>すべて読んだ人にだけゆだねられている

■今日の私のカキコミは、なんでも&かんでも70年代『ロッキング・オン』がらみでレスしてゆけば、
あの当時、「ROの会」ってーのがありましたよね(笑)。
私は、もちろん入ってはいませんでしたが(笑)、毎号、「ROの会」の新入会員の個人情報が記載され、
そこに「ロッキング・オンは何もしません。自発的に何かを始めない人がROの会に入っても意味はありません。」的なコメントが毎回しつこく書かれていましたよね(笑)。
この発想もまた、吉本隆明「自立の思想」的でも、ありますなぁ。しみ&じみ。

>優れた表現は必ず場によって変容され、発した者の意図を離れたところで共有される。

■中野さんが言う「場」を、私は「メディア」と名付けているのですが、
私と中野さんが、装置としてのメディアにある一定の信頼と期待を持つ理由は、
その透明なバトン・リレーの可能性にあるのでしょう。
■「セックス・ピストルズがアルバム1枚で消えてなくなってしまった」終わり方は、
彼らが登場した当初から、長髪をなんの未練も無く否定していたファッションという「場」=「メディア」で共有されていたのですし。

>誤解に満ちた浅はかなものだったとしても、まぎれもなく吉本隆明の作り出した「場」が影を落としたもの

■私は56歳まで生きてきて、いよ&いよ、歴史は進化に向かっているのではない、と、絶賛☆確信中♪
東浩紀『一般意思2.0』では、ハンナ・アーレントの考え「ひとは私的には動物として生き、公的にのみ人間として生きる。」が語られています。
ここに、今日も話題の「自衛隊のイラク派遣時の日報問題、財務省の決裁文書の改ざん問題、財務省理財局が森友学園に「口裏合わせ」を依頼」の補助線を差し込むと、
公的だからこそ動物として野蛮になり、私的だからこそ正論を愚直に貫き人間であろうとする姿の存在も構造されていることが分かります。
でも、ロックを聴いてきた我らには、こんなのアタリマエなんですよね(笑)。
愛と平和のジョン・レノンが、狂気の天才であることは、「発した者の意図を離れたところで共有され」ています。
■また、私は吉本隆明を語る時に「体系」を持ち出すと、やや緊張します(笑)。
それは、「筋」と言い換えてもいいでしょう。「やつの考えには、スジが通っている。」の「筋」、です。
ラーメンと映画と政治とグラガを同じ言葉で語る『共犯新聞』の「筋」(がくっ。)。
■もはや人類は直線型の進化をしていないのであれば、「筋」の可視化が当面の『共犯新聞』の仕事のよーな気がします。

>僕は一番影響を受けた77~78年ごろのロッキング・オン

■私が『ロッキング・オン』の存在を知ったのが、1977年の春、入学したての高校のある街の本屋で、でした。

http://www.geocities.jp/kyouhanshinbun/index.html

 

ロッキング・オン79年10月号

 投稿者:中野真吾  投稿日:2018年 4月 8日(日)22時13分42秒
返信・引用
  久保さんが書いておられたP-MODELの記事に記憶を呼び起こされ、親の家の押し入れの奥深く埋もれていたロッキング・オンの79年10月号を発掘しました。間違いなくこの記事に強く反応して、岡山であったP-MODELのライブ(イン・スルー・ジ・アウト・ドアの発売前の音源を引っさげての渋谷陽一のトークライブ。P-MODELとリザード、ARBが参加)に行き、続いて「イン・ア・モデル・ルーム」を買いました。
知り合いのやっていたスナックでロッキング・オンとP-MODELについていい気持でくっちゃべっていて、たまたま居合わせていた年長の知人に話を振ったら強烈な否定を受け、必死で抗弁したのはこのころです。
その後すぐに発売された「ランドセル」が僕にとっては(作品の価値はともかくとしてあくまで僕にとっては)拍子抜けであり、実はP-MODELへの関心はわりとあっけなくしぼんでしまい、PILやザ・ポップ・グループ、スージー・アンド・ザ・バンシーズなどを経て、スターリンを体験することになったわけです。

79年10月ごろ、僕はロッキング・オン(特に岩谷宏)の影響をもろに受けて全投稿型同人誌なるものを出していました。単行本より雑誌の方がいいんだと思い、なぜかと聞かれると、雑誌は消えてなくなってしまうからだとか言っていました(これホント)。雑誌が消えていくときに、書かれた言葉もチリかアクタのように飛び散ってしまう、チリやアクタが本当に消えてしまうか、誰かの中に残っていくか、すべて読んだ人にだけゆだねられていると考えていました。その雑誌はあまりロクなことになりませんでしたが、この感覚は見当外れではなかったように思います。

「場」が存在している。単なる空間ではなく、重力を持つ何かが存在したとき、その重力が「場」を作り出す。存在するものと場とは分離不能であり、場の中で生まれるものは常に個人を超えていこうとする。優れた表現は必ず場によって変容され、発した者の意図を離れたところで共有される。不十分な表現ですが、そんなことを感じていました。P-MODELが提示したソノシートとか、ザ・ポップ・グループが印税を放棄したこととか、「そりゃそうだよなあ」と自然に納得したものです。

吉本隆明が死にました。彼の思索の体系は永遠に失われ、誰にも復元できはしないわけですが、たぶんそれはどうしようもないことであり、真崎守の「今でもまにあうもんならいつだってまにあう、おれにとっては一生にまにあわんのだ」になぞらえて言ってしまえば、どうしようもないことならどうなってもいいことなのではないかと思います。僕のような中途半端なファンが、彼の主要な著作には歯が立たず、自分の気に入った文章の断片だけを繰り返し読み、いつの間にか僕の中の吉本流でものを考えるようになってしまったなら、それが誤解に満ちた浅はかなものだったとしても、まぎれもなく吉本隆明の作り出した「場」が影を落としたものだと思うわけです。

僕は一番影響を受けた77~78年ごろのロッキング・オンを、大学の部室に持って行ってみんなに読め読めと言っていました。卒業してからも置かせてもらっていましたが、そのうちサークルボックスも取り壊されて移転し、やがてはサークル自体がなくなりました。「僕の」ロッキング・オンは文字どおりチリかアクタになってしまったのだと思いますが、そこに書かれていた言葉は僕の中のどこかに残っているし、僕以外の誰かの中にも残っているだろうと思うわけです。(そのロッキング・オンに何が書かれていたか、すっかり忘れていることに気付きました。情けない)
 

ふきのとうのデビュー曲は「白い冬」

 投稿者:久保AB-ST元宏  投稿日:2018年 2月24日(土)17時36分52秒
返信・引用 編集済
  No words for Mr.中野真吾's love♪
>あなたの小指1本でアフリカの飢えた子供5人が救えるので小指をくれ

■いやぁ~すごいっっすね~。
つられるままに、
♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To Die「ふゆふきうどん『わるいしと』」

♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To Die「ふゆふきうどん - 上京ドキュメンタリー」

♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To Die「ふゆふきうどんと腕筋ボーイズ。。。 2018/01/30 東高円寺 UFO CLUB」

と、観たら、「腕筋ボーイズ」がバンシーズ?・・・いや、いや、いや。
■ずいぶん前に、私は中古CD屋で、ハイポジ『身体と歌だけの関係』を聴いたことも無いのに、
ジャケ買いして&聴いて&しばらくヘビロテだったのですが、
しばらして、早川義夫がカバーして、おおおお&さすが早川義夫。と、唸ったものです。
そんな可能性が、ふゆふきうどんちゃんにもあるかな?
ちなみに、1974年にデビューした
♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To Dieふきのとうは、我が家のご近所の方です。

http://www.geocities.jp/kyouhanshinbun/index.html

 

ふゆふきうどん

 投稿者:中野真吾  投稿日:2018年 2月24日(土)08時05分39秒
返信・引用
  <私が古本、とゆーか、古本屋が好きな理由は、私が「ケチだから」、だけど、
 実は(?)、
 不意打ちの「再会」の愉楽。
  ↑
まさに!至言ですね。
ところで骨の髄までケチであるわたくしは、先日小銭をジャラジャラさせて「古本ながいひる」へ行きました。店内には自主流通のCDのコーナーがあって、木村店主のセレクトショップのおもむきがあります。そこで店主激押しの「ふゆふきうどん」の「NO SING」というCDを買いました。ジャラジャラで買えました。
これがなかなかすごかった。これは→https://youtu.be/g7DJ5NMiRwk そのCDラス前の普通に暗い佳曲ですが、その後のタイトルのない曲が異様である。チョコレートの湯煎をしている主婦のところにボランティア団体なるものがやって来て、あなたの小指1本でアフリカの飢えた子供5人が救えるので小指をくれと言われ、了承したところ、肝臓半分で20人助かる、耳で10人、眼で15人、歯6本で8人、爪10枚で4人、髪全部で6人と要求がエスカレートして行く。いったん拒絶するのですが、あなたの子供が5階からお菓子を落として遊んでいるのを見たと非難され、40人のアフリカの子供のため心臓を提供することを承諾します。しかしその前に、チョコレートの湯煎をさせてほしいと頼むところで、曲は終わります。
それこそ現代版幸福な王子かどろろかと思って聞いていたのですが、不気味である。人体の解体にまっすぐつながっている。またほとんど無責任なまでの自己の放棄には、昔ぼくの友人が好んで使っていた「女性の泥のようなニヒリズム」という表現がぴったりしてしまいます。
で、ユーチューブを見ると「涅槃」という曲→https://youtu.be/FunM_eWwQ3I がありました。これはなんだろう。
もしかしたら自分はいま、バンシーズに出会わないスージー・スーを見ているのかもしれないとか、思っているわけです。

  ここに来て
  ここに来て
  ここに来て
  今すぐ
  夜が傷つけた
  乾き始めた朝がくる
    (ここに来て/ふゆふきうどん)
 

今、明かされる日本のロック秘話。

 投稿者:久保AB-ST元宏  投稿日:2018年 2月17日(土)15時12分48秒
返信・引用 編集済
  Mamunia Mr.♪はぁぐれたぁ~・フロム・カナダァ~!スローなブギにしてくれサカタ oh oh oh
>ぼくは寒い廃墟の警備事務所の中で、この戦争の意味はなんなんだと「現代用語の基礎知識(苦笑)」を読んでいたよ~

■アブノーマル・ストリッパーの「星の数と競うほどある」(がくっ。)名曲のひとつ、
「お前は亡命者」の最期のリフレイン、
Am      Dm   Am
お前の好きなフライドチキン
Am      G    Am
お前の好きなチーズバーガー
お前の好きなコカ・コーラ
お前の好きなホットドッグ
お前の好きなビルボード
お前の好きなサーフボード
お前の好きなカルフォルニア
お前の好きなカリフラワー
は、まさに片岡義男を仮想敵(?)として書いた詩だった(笑)。
だから、最後には、
お前の好きな片岡義男
と飯島にシャウトしてもらって終わる曲になる可能性もあったのだ(マジ)。

http://www.geocities.jp/kyouhanshinbun/index.html

 

をおおおおんちゅうーおおおおれの肩を、抱きしめてくれ

 投稿者:スローなブギにしてくれサカタ  投稿日:2018年 2月17日(土)08時26分46秒
返信・引用
  (Facebookへの投稿コピー) 北海道のアングラロック新聞《共犯新聞》が、片岡義男が言語を通じて日米と湾岸戦争を語る評論書「日本語の外へ」を紹介している。いつもの共犯評論のように、キヨシロー、anone、ラップ音楽(ロックの否定!)、アメリカ画家とあちこち話が飛びつつ進む面白い論評です。

バイクを愛する私と弟オコは片岡義男のオートバイ小説を学生時代に愛読し、ときには星の下で眠っていたんだけど、共犯新聞主筆クボ凹モトヒロは違う時代に片岡の評論を読んでいたのか。キヨシローが大好きだったという「ぼくはプレスリーが大好き」くらいは、なんとかして手に入れ読まなくちゃなと思った。

クボやキヨシローが片岡義男を読んでいたということは、新鮮な発見である。バンドをやめ北海道に行ってしまってからのクボのことはよく知らないんだけど、君は湾岸戦争の頃に、片岡義男を読んでいたという。ぼくは寒い廃墟の警備事務所の中で、この戦争の意味はなんなんだと「現代用語の基礎知識(苦笑)」を読んでいたよ~と、友部正人の歌が頭のなかで流れてくる。◆

  ◇  ◇  ◇

共犯新聞が最後に紹介していた、この本の執筆を持ちかけた若い「フリーランスの編集者」のような人が今も片岡義男のまわりにいるようで、片岡義男.com というサイトがツイッター等で非常に活発に活動している。そこに共犯新聞のアドレスとクボ記事の内容を通知したらありがとうと返事が来た。片岡義男本人はどうだかわからないが、彼の編集者はあの記事を読んでくれたよ。
 

世界じかけのオレンジ

 投稿者:久保AB-ST元宏  投稿日:2018年 1月 6日(土)14時25分54秒
返信・引用 編集済
  Let me roll it to Mr.中野真吾
足元に転がる地球をけとばし、ひとりになって考えてみな。世界はアップ&ダウン、あっぷっぷ、アップルる。変わる

『オール・アイズ・オン・ミー 』よか、やっぱパブリック・エナミィとN.W.Aだな。『旅する写真家 レイモン・ドゥパルドンの愛したフランス』は、ゴダール出演にだまされた感じー。がくっ。私の年末&年始は、
映画10本を観る空き時間をブックオフで過ごす(がくっ。)とゆー超だめだめ&をたくな日々でした。
私は、おおむね札幌の中心のやっぱ、映画館で観たい♪シアター・キノ、やっぱ、映画館で観たい♪スガイ札幌劇場、パラパラ・・・ブックオフ札幌南2条店の3点を、
俺は脳味噌の喰いしん坊。脳味噌の中で愛を喰らう。三角食べのよーに足元に転がる地球をけとばし、ひとりになって考えてみな。ぐる&ぐるてく&てく歩いた、他人の宇宙☆歩いていたわけです。
もし私がスマホとかケータイ電話を持っていたら、誰かから呑みに誘われたかもしれませんが、そんなことも無く(笑)ひとりで。
で、その間、持ち歩いていたのが赤坂真理パラパラ・・・『東京プリズン』(2012年7月24日、初版)。
休み初日の12月30日の夜から読み始め、正月休みの最終日=1月4日に読み終わりました。
12月の私は、Bookoffで中野翠『あのころ、早稲田で』と、坪内祐三『一九七二』(108円!)を買い、続けて読みました。
前著は著者が1965年に早稲田大学に入学し、学生運動の中、『ガロ』やゴダールに出会った日々から連合赤軍「あさま山荘」事件でのショックまでを書いて
います。
一方、後著は、その連合赤軍「あさま山荘」事件を克明に分析しつつ、
雷雨のグランド・ファンク・レイルロード後楽園球場ライブや、『頭脳警察の「うた」を必要とした若者たち』を経て、『ぴあ』創刊を描いています。
私が次に読んだのは、『ラップ・イヤー・ブック』とゆー「ラップ年間1979-2014」。
てな3冊で、1965年から2014年までをリニアで検証(?)した後に読んだ『東京プリズン』は、
小説ならではの手法で、リニアを分断し、時制や人称を入れ替え、混乱という思索で描いた天皇制。
もはやサブ・カルチャーを通じてでなければリアルに世界を抱きしめることができない。
換言すれば、
優れた表現者とゆー器が違和感を掬い取ったら、世界は変わる(かもしれない)。
今年もよろしくお願いします。

http://www.geocities.jp/kyouhanshinbun/index.html

 

あけましておめでとうございます~平井正也はやっぱり最高

 投稿者:中野真吾  投稿日:2018年 1月 4日(木)19時28分3秒
返信・引用
  ロックンロール聴かせてよ 愛とか平和のためじゃなく
ぼくときみのために
ロックンロール鳴らしてよ 世界を変えるためじゃなく
ふたりのために
ロックンロール教えてよ 未来を変えるためじゃなく
今とかこの現実のために
ロックンロールうたってよ 何回でもうたってよ
ふたりのために世界は変わる
           (世界は変わる/平井正也)
            ↓
https://youtu.be/l5VPAxtu_f0
 

ニュー・ウェーヴ(←死語。)という生き方。

 投稿者:久保AB-ST元宏  投稿日:2017年12月20日(水)01時49分53秒
返信・引用 編集済
  Leave Mr.♪はぁぐれたぁ~・フロム・カナダァ~!サカタ@カナダ alone Mrs Vandebiltt♪
>俺たちアブストはフォールが止まらない状態でいろいろ大変だった

■アブノーマル・ストリッパーは、「手に入れた手法を繰り返す」手法を拒否したところからライズしたから。
そして今、私たちは「手に入れた手法を繰り返す」手法を拒否したくせに、生き延びている。

http://www.geocities.jp/kyouhanshinbun/index.html

 

俺たちのライズ&フォール

 投稿者:サカタ@カナダ  投稿日:2017年12月17日(日)16時32分26秒
返信・引用
  ゆうたろうは俺たちアブスト4人期が終わりかけてた頃ラママに一緒に出ていて、「幻覚マイム」という先鋭的なバンドでインディレーベルからレコードを出し、有名になっていったんだよね。Facebookにいるトシローというやつがベースで。アレルギー的なかっこいいキメのリフを大量に作り、ギター・ドラム・ベース&声でバシバシ決めて音的に高揚していくバンドで、その頃のインディーズブームの音的な波を見事に捉えていたし、とにかくうまかった。

当時彼らはライズ&フォールのライズのほうで、俺たちアブストはフォールが止まらない状態でいろいろ大変だったよ(汗)。アブストはアマチュア時代のブルーハーツとも一度一緒にやったよ。リハの1曲めを聞いただけでこれは笑っちゃうくらいな奴らが出てきたと思い、自分の出番が終わると客席に回ってドカーンと踊ってました。
 

久しぶりじゃのう!(岡山弁)

 投稿者:久保AB-ST元宏  投稿日:2017年12月17日(日)11時30分42秒
返信・引用 編集済
  And at last Mr.中野真吾 will be free,
Mr.
♪はぁぐれたぁ~・フロム・カナダァ~!サカタ@カナダ's a bluebird♪
>自分のこととかバンドのこととかろくにしゃべらないで、ともかく久保さん、久保さんでした。

■私は、ゆうたろうは今も東京で音楽活動をしていると思っていたから、岡山県に住んでいることも、プチびっくり。
しかも、それを会ったことも無い(笑)中野さんから教えていただけるなんて(笑)♪
■私は1985年に音楽を「スパッとやめちゃって」、5年後の1990年に再会した音楽仲間から、
「久保は、どーして音楽をやめたんだ?」と訊かれ、
私は、「だって、お前も、そのあと、やめただろ?」と答えたけれど(←性格の悪さ爆裂な回答。)、
その時は、お互いにまだ28歳だったんだよね(笑)。
■1983年、ゆうたろうは出会った当時、母親のことを語っていたけれど、ネパール料理店『麦』は母親と一緒に経営しているのかな。
■ロック史的に言えば、ゆうたろうは、岡山県ロッカーズ(?)として甲本ヒロト@ザ・ブルーハーツらと上京し、
デビュー直前のミッシェル・ガン・エレファントとイベントを展開。
ロック史が甲本ヒロトとミッシェル・ガン・エレファントの間を埋めようとしたら、ゆうたろうの(再)発見が必要だ。
■先月、私が我が沼田町で柳家さん生の落語ライブを実施する事前学習(?そう、私もマジメなのだ・笑。)で、
amazon古本で買った古雑誌裏表紙が表紙だったらいいのにー。がくっ。『笑芸人』2002秋号に、
甲本ヒロトが中学生の時に隣のクラスにいた水道橋博士@浅草キッドによるヒロトとの回想と再会のエッセイが4ページに渡って掲載されていた。
そこで、2002年、40歳のヒロトが水道橋博士に語った「漫才とロックの共通項はあるだろうか?」からの会話が引用されていたよ。
水道橋博士「長年続けているとスタイルに飽きない?」
甲本ヒロト「でも、これはロックとか漫才とかも同じで、芸事とかクリエイティブな仕事に就くと、自分の好きなスタイルを模倣しようとするじゃん。
その模倣のレベルのチャンネルを一つ変えるんだ。
例えば、ギタリストがギターを持って『アイツの鳴らしたあの音を自分でも鳴らしたい』って思っちゃもうダメなんだよね。
アイツがあの音を鳴らした時の『気持ち』をコピーするんだよ。
そうやっていくと一生現役なんだ。
音をコピーしたり再現したりだと形骸化するだけでさ。
そこに衝動がなければ現役じゃないと思うんだ。
もしその衝動がなくなった時は終わりだ」
■私がバンド時代に新曲を発表した時に、ゆうたろうが何回か、私の書いた歌詞に具体的に反応してくれた。
1983年に♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To Die『植物園の秘密』をバンド内に発表したばかりで、まだアレンジの最中に、ボーカルのあばらやで、あばら骨折った俺?飯島康義が持ち歩いていた歌詞を
ゆうたろうが読んで、すかさず私を探してきて、「新曲の歌詞、すごいですね!」とわざわざ伝えに来てくれた、とか。
また、同年12月に♪Too Old To Rock And Roll , Too Young To Die『核シェルターのメリークリスマス』を発表した時には、
歌詞の「年老いた夫婦は 子供を想い出し
サンタクロースだった 昔を思い出す」に、ゆうたろうは「泣きそうになった。」と私のところに言いに来てくれた。
そんなこともあって、私は彼が母親のことを語ったことを記憶しているのかもしれない。
同年、同じ18歳の三宅どじん伸也も、私のバンドを観に来てくれた、当時、腐るほどあったビート・バンド(←その後、実際にぜんぶ腐った。)が大量に出演したライブハウス『新宿ACB』のライブ・イベントの終了後に、
「アブノーマル・ストリッパーは、決定的に他のバンドとは違いますね。歌詞が圧倒的に違う。」と、まっすぐな視線と出っ歯で私に言ってくれた。
彼ら2人が岡山県の同郷者で、その後、バンドを組むことなど、当時の私はまったく知らなかった。
そも&そも、今でも私にとって岡山県は、チベットかバルセロナのように、日常で想い出す土地では無い(笑)。
彼ら2人が私の書いた曲や詩に気が付いてくれていて、その後、バンドを組んだのは、もしかしたら私の誇り(?)なのかもしれないな。

>中野真吾さん、面白い話をありがとう。

■いや、まったく(笑)。
あの時代が、現実に存在したのだ~・と、確認できました(笑)。

>またライブに行ってみます。

■そうか。ゆうたろうは、現役なんだ。

http://www.geocities.jp/kyouhanshinbun/index.html

 

再訪

 投稿者:中野真吾  投稿日:2017年12月14日(木)23時43分2秒
返信・引用
  サカタ@カナダさん、ありがとうございます。
本日再訪してみたら、お店満員で、ゆうたろう氏大忙しでした。
またライブに行ってみます。
 

なつかしきゆうたろう

 投稿者:サカタ@カナダ  投稿日:2017年12月13日(水)16時15分24秒
返信・引用
  中野真吾さん、面白い話をありがとう。Facebookに転載しておきました :-)(アブノーマルストリッパーのギターサカタ)  

ゆうたろう氏に会った!

 投稿者:中野真吾  投稿日:2017年12月12日(火)21時52分11秒
返信・引用
  三宅“土人”伸也氏にはもう会う方法がないわけですが、ゆうたろう氏は「麦」というネパール料理のお店に行けば会えると聞いて、今日の昼に行って来ました。写真で見るときつめの男前であるゆうたろう氏は、とっつきのいいお兄ちゃんで、気楽に話しかけることができました。
中:ゆうたろうさんですよね。
ゆ:そうですが…
中:ホーボーズ・ジャングルの「ゴールデン・タイム」を聞かせてもらったんで…
ゆ:へえ~。またなぜ…
中:話すと長いんですが、久保元宏さん、ご存知ですよね。
ゆ:久保さん!アブノーマル・ストリッパーの!北海道の!
中:僕は久保さんの共犯新聞のファンで、ゲストブックにファンレターみたいなのを書いたら返事をくれて、やり取りしてるうちに「岡山在住なら“どじん”をご存じですか」と言われて(以下略)
というわけで、いろいろ話をしました。
「久保さんの音楽は、ともかく凄かったですね。続けてればいいところまで行っていたと思うんですが、本当にスパッとやめちゃって」「曲はストレートなんですが、歌詞はPモデルとかあの辺の影響を受けてて、パレスチナのこととかガンガンうたってました」「姿がまたかっこいいんですよ。身長180センチくらいあって」「共犯新聞(笑)、ライブでやってましたね。メンバーが出てきたけどボーカルがいないと思ったら、久保さんが朗読するんです」自分のこととかバンドのこととかろくにしゃべらないで、ともかく久保さん、久保さんでした。
なぜ共犯新聞を知ったのかと聞かれて「共犯幻想を調べようとネットを検索してたら偶然見つけて」と言ったら「共犯幻想って?」と聞かれ、これこれこうこうと説明したら「共犯新聞ってそこから来てるんですか」と納得してました。今度持って行ってみよう。
ともかく話がはずんで、これほどおいしい昼ご飯を食べたのは久しぶりでした。まるっきり話し足らないので、近いうちにまた行きます。会ったことのない久保さんと会うことができない三宅さんのおかげで、すぐ近くにいるまだ知らない人に会うことができました。ありがとうございます。
 

落語、文学、音楽、ディラン

 投稿者:久保AB-ST元宏  投稿日:2017年12月 2日(土)10時47分43秒
返信・引用 編集済
  Jet I can almost remember Mr.ムチャぶりに、こんがらがって♪ディラン's funny faces♪
>そんなHARD DAYSだったのに共犯の本質。本質の共犯。引き受けてくれるなんて、久保さんの極楽ドクター!風邪が治らない~って、普通そんなにすぐには治らないのかな?中毒も重症ですね。

■昨日、猛吹雪の中、札幌市へ日帰り営業+ついでに(?)やっぱ、映画館で観たい♪映画3本(極楽中毒も重症←の証明。)の視界ゼロのカー・ラジオで、
NHKラジオ 「高橋源一郎 × サンキュータツオ」を聴いていましたら、
立川談志 「こいつぁ極楽だ」がかかりました(笑)♪
ご存知、サンキュータツオ(1976年6月21日生まれ)は、漫才コンビ 「米粒写経」でありながらの、日本語学者。
さん生師匠の沼田町ライブが決まった頃、ディランさんからいただいたのメールの文末に、なにげに、
故・苫小牧ライブハウス『アミダ』の田中ツル田中ツル、山口洋 (苫小牧にて)2006年マスター寄席文字の達人だったので、こういうとき生きていればと思います。」
と、書かれていて、ポン!(←ひざを打つ音。)
そう&そう、なのだ。私は、寄席文字ではなくて、これを、寄席「文学」と誤読しちまったのです(笑)。
サンキュータツオは、早稲田大学第一文学部文学科文芸専修卒&同大学大学院文学研究科日本語日本文化専攻修士修了。
しかも、習った教師がマグリット・デュラスなどの翻訳者=平岡篤頼!
平岡の学部での教え子は、栗本薫、重松清、堀江敏幸、小川洋子、角田光代、勝谷誠彦ら、すげー文学者が続出してますよね~。
んで、サンキュータツオの卒業論文は立川志の輔に2年間密着取材をした「落語」!
さらに今、若い落語ファンの大量の掘り起こしをしている『渋谷らくご』の伝承者が、彼。
ラジオで高橋源一郎が彼に、「なんで、落語に興味を持ったの?」と訊くと、
「もともと、高校時代から文学という病と治療。夏目漱石と、内田百閒が大好きで、彼らの小説に落語が出てくるので、こんな面白い人の好きなものは、もっと面白いんだろう、と寄席に通うようになりました。」
と、言うのだから、私の読み間違い寄席「文学」も、まんざら、ナイスだったわけです(?)。
そもそも、私も夏目漱石と、内田百閒が大好きだし、民俗学も好きなので、三田村鳶魚や森銃三も好きで愛読していて、生で落語が聴けない不幸を嘆いていたわけです(笑)。
一方で、古今亭志ん朝が2001年10月1日(月曜日)午前10時50分に、肝臓がんで享年63歳で死んだときも、ディランさんからのメールで教えていただき、
私は『共犯新聞』に、「共犯の本質。本質の共犯。落語とは、音楽の一ジャンルである
との名言を書き、
ディランさんからおほめのお言葉をちょうだいしたのも昨日のことのようです(遠い目)。
落語が、文学であり、音楽であると、シンクロした現在、我らが文学に、こんがらがって。ボブ・ディランがノーベル「文学」賞を受賞したので、
落語、文学、音楽、ディランのキーワードを強引につなげてみました。
でもなんかつながってますよね。
・・・てか、ボブ・ディランって落語家かも!

http://www.geocities.jp/kyouhanshinbun/index.html

 

つながり

 投稿者:ディラン  投稿日:2017年11月30日(木)12時25分23秒
返信・引用
  そんなHARD DAYSだったのに引き受けてくれるなんて、久保さんの極楽中毒も重症ですね。
あらためてありがとうございます。

演目は「天狗裁き」と「試し酒」でしたか。
志ん朝の亡くなる半年ぐらい前、新十津川のゆめりあホールで、志ん朝一門会がありまして行きましたが、すっかり痩せてしまった姿に驚きました。
そのときの志ん朝の出し物が「試し酒」でした。
体調的にはかなりしんどい時期だったと思いますが、それをまったく感じさせない見事な一席でした。
最前列で堪能していたところ、偶然隣に座っていたのが、芦別の米屋さんの中本さんでした。
その縁で中本さんの三遊亭小圓朝落語会のお手伝いを十年やったんですが、小圓朝の十八番が「天狗裁き」でした。

米屋さん、試し酒、天狗裁きのキーワードを強引につなげてみました。
でもなんかつながってますよね。
 

レンタル掲示板
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