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「筋」の存在と失語症

 投稿者:中野真吾  投稿日:2018年 7月 8日(日)01時12分43秒
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  しばらく前に久保さんが書いておられた「筋」の可視化ということ、考えてみようとしていたんですが、可視化にまでいくとぼくの手には負えないので、とりあえず「筋」について思うことを書かせてもらおうと思います。

「筋」と言えば真崎守ですよね。これほど自分の中での「筋」にこだわった人は思い当たらない。「筋」に殉じようとしたと言ってもいいくらい。というか後期の「自分を抜けだしていこう」というふるまい自体が、「筋」からの逸脱への苦しい企図だったように思えます。「共犯幻想」は、まさに自分があろうとする自分になるために、自分の過去を再構成してまで自分の「筋」を貫こうとした者の物語です。
10年近く前「共犯幻想」を読み返す機会がありました。そのあと少しして気付いたのですが、この物語の中で「僕はなぜ(バリケードの築かれる塔を)登っていったのだろう」「君はなぜこの場所から降りていかないのか」という問いは執拗にくりかえされますが、「君はなぜここに登って来ないのか」「君はなぜここから降りていくのか」という問いは、おそらく一度も発せられていないのです。(読み返さずに書いています。もしあったらすいません)ここにはおそらく厳密な線が引かれています。

>1960年代の過剰さが「参加」の強制を生み(=たとえば、オルグ。)
僕が20歳前後であったころ、「学生運動」とその精神は、ほとんど目に見えないほどのものになっていましたが、しかし確かに存在していました。「あなたはなぜ、参加しないのか」「あなたはなぜ、発言しないのか」「あなたはなぜ、眼をそらすのか」何かが起こるたびに、あるいはただの何かのはずみのように、こういった問いがひっそりと発せられ、問われた者はうつむくばかりだったのです。それは言ってしまえばメドゥーサの首のような問いであって、この問いに見据えられたものは石になるしかなかった。70年代の後半から80年代はじめが暗かったとすれば、その理由の一部は間違いなく、この問いが多くの者を「失語症」にしてしまったからだと思います。この問いを共犯幻想は厳密に排除していました。

おそらくその理由の半分は「やってこようとしない者や去っていく者など相手にしない」ということですが、あとの半分には「人間は自分でも自覚できない欲求を抱いて、眼に見えない目的地を探すほかない存在であり、何かをしない理由~何かに価値を見出すことができない理由など、答えることができない」という認識があったのだと思います。

そこで、「共犯幻想」の4人のように「同志≠きみ」を持つことができたものは、「なぜ君は」と問うことにより、あるいは「ぼくが登って行った理由は」と語ることにより、自分の「筋」を語る=可視化することができました。では、どこにも「きみ」を見出すことができなかったものは、どのように自分の「筋」を語ればよいのか…もちろん、そんなことはできはしないわけです。問い詰めることで他者を失語症に追い込んでいくことを拒否した者は「きみ」を見つけることができない限り、自分を語る=筋を可視化していくことはできなくなる。つまり自分が失語症に陥っていくしかなくなるわけです。「死春記」の孤絶感と人恋しさは、このあたりからやって来るのかもしれないと思います。

その失語症の「回路」から脱却していくために、真崎守は「筋」そのものから逸脱しようとした。「浮浪雲」のようにあろうとしたかのごときふるまいは、しかしやはり身についたものではなかったように思います。抜け出そうという姿勢は逆に抱えているものの重さを示してしまっていました。必要なのは「ここにはまだない」「従来の価値の体系と断絶している」文体、絵柄、音色、コードであり、それが発見、創出されるためには、時間の経過と(残酷ですが)世代の交代が必要だったのではないでしょうか。
 
 
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