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久保元宏は饒舌であると思うことについて

 投稿者:久保AB-ST元宏  投稿日:2018年 4月14日(土)16時28分9秒
  通報 返信・引用 編集済
  Oh no one ever left alive in 1985, will ever do♪
Mr.中野真吾 may be right
>僕は実は1990年ごろからの十何年か、友部正人と遠藤ミチロウ以外の音楽にはほとんど何も積極的に手が出ないという状態

■なんだか私も似ています(笑)。
私の場合は、「1990年ごろからの」数年間は、モーツアルトとマイルス・ディヴィスとジョン・コルトレーンばかりを聴いていました。
それはロックが1985年から一気につまらなくなったため、5年間の空白後にたどり着いたお勉強としての CD=文庫本時代への私なりの同時代性の回復でした。
「ロックの1985年問題」については、私は『共犯新聞』などに何度か書きましたので、中野さんもどこかで読まれているかもしれません。
私が友部さんのレコードを最初に手に入れたのは、
1983年に雑誌『音楽専科』社の編集室のすみに置かれていたサンプル・レコードの山からいただいた『にんじん』(1973年1月、URC、URL-1032)でした。
当時の私は『音楽専科』社のアイドル・ロック(?)グラビア月間雑誌『アリーナ37℃』に「アブノーマル・ストリッパー通信」とゆー連載をしていて、
毎月、銀座にある編集部へ原稿を届けていたのです。
当時の東京のライブ・ハウス・シーンは、
①ビート・バンド
②ニュー・ロマンチック
③おどろおどろしい系
④ハード・コア・パンク
⑤フリー・ジャズ系のアバンギャルド・ニュー・ウェーブ
⑥ヘビメタ
⑦おされなニューミュージック
⑧さわやか文化会系ニュー・ウェーブ
に分かれていて、それらのジャンルごとに歌われている歌詞の単語や語法が似ていて、そのジャンル分け成立っぷりが私には不快でした。
それま、まるで1960年代の政治セクトの分類分けのようで、私には気持ち悪かった~。
その整理されている受動態ぶりに気が付いていないくせに、能動的に表現している☆と勘違いしている自信過剰っぷりが。
つまり、これは表現が動脈硬化を起こした時の「紋切り型」の問題です。
ですから当時の私は友部さんの音楽をラジオなどで聴いてはいましたが、
10年前にすでに現代詩の手法で『にんじん』を創造していた友部さんに心地よいショックを改めて味わったのです。
■それから1985に札幌市で就職した私の楽しみは、
雑誌のように続けて発表された遠藤ミチロウの Michiro, Get the Help !『オデッセイ・1985・SEX』3連作を発売日に買って聴くことでした。
しかし、3作目の『GET THE HELP !』のツマラナサぶりと、
同年のP.i.L『アルバム』の保守回帰ふつーのハード・ロック化と、
同年の真夏のテレビで長時間生放送されたライブ『ウィ・アー・ザ・ワールド』の吐き気がするロックの葬式ぶりに私の「ロックの1985年問題」は確信されたのです。
ああ、またしても私は「ロックの1985年問題」を書いてしまった(笑)。
■私が初めて友部さんのライブを観たのは、1987年ごろでした。
札幌のライブ・ハウスでライブが終わり、客が出口へ向かう中、私は逆方向の楽屋へ向かいました。
私はつい2年ほど前まではライブ・ハウスでは客席よりも楽屋にいた時間が長かったので、自然に歩いて入っていったのですが、
その私のあまりにも、とーぜん風な動きにスタッフたち誰も止めず、楽屋で私は友部さんと2人だけで少し話し、握手をして帰宅しました。

>P-MODELが、そんなふうに持続し続けていたことを当時知っていたら、自分は何を感じたのか興味があります。

■確かに中野さんが感じたように、P-MODELのセカンド・アルバム『ランドセル』は、あまりにも戦略的過ぎ=マーケット的中だったのが、多くのロック原始人たちから違和感を感じられました。
それは、私も、P-MODEL自身も(!)そうだったようで、ベーシスト秋山勝彦くんをクビにしたサード・アルバム『ポプリ』は会心の名盤であり、この時点で私のP-MODELへの信頼は決定しました。
この1981年に私は東京でバンドを始め、さっそく渋谷のライブ・ハウス『屋根裏』へP-MODELのライブへ行ったら、満員で入れず、階段に座ってブラブラしていたら、
町田町蔵がやってきて、「入れへんのか?」と聞かれたので、うなずくと、彼は階段を降りて帰りました(笑)。
で、ライブが終わってP-MODELのメンバーが入り口から出てきて、楽屋がある3階へ向かい、数分後のアンコールで再びメンバーが入り口から入る時に、私は一緒に入り(笑)、
P-MODELライブ初体験をしたのでした(笑)。しかも、無料で。がくっ。
確か、曲は「MOMO色トリック」で、ちゃんと(?)レコードでの歌詞の「ユージさん」は「今野雄二」に、「アホのリノ」は「かたせ梨乃」と歌っていたなぁ。
で、この曲のエンディング間際に平沢進が「あたま!あたま!」と何度も叫んでいました。これも当時のライブだけの演出だったようです。
この町蔵とすれちがったり、ライブでレコードからはみ出す表現が存在することを実感した体験が、私にロックの現場が現実に存在することを深く刻み込んだのです。
んでも、私の一番好きな彼らのアルバムは、1984年に発売された『ANOTHER GAME』なんだけど。
そう&そう、P-MODELに私の弟が加入する前に、中野とゆーベーシストが加入するんだけど、彼はアブノーマル・ストリッパーの後輩なんだよね(笑)。
そこらへんのメンバーの相関関係(?)解説が、1990年代にリリースされたP-MODELのPV集の解説に私がらみで書かれていたりもしていました。

>言うべきことを発信しようとする以外の部分では妙にストイックで、自分の方からかかわりを持とうとすることが少なかった

■私は1970年代論を、「失語症」をキーワードに書いたことがありました。
すべてが過剰であった1960年代の反動として、1970年代を生きる人々が私の眼には「失語症」として説明できたのです。
それは、参加アレルギーと、今なら追加説明できるかもしれません。
1960年代の過剰さが「参加」の強制を生み(=たとえば、オルグ。)、1970年をはさんで「参加」についての「失語症」を蔓延させた、と。
ですから渋谷陽一に代表される1970年代以降の活動家(?)は、1960年代とは異なる「参加」のシステムを独自に作り出すことから始めなくてはならなかったのでしょう。
その分水嶺に屹立しているのが、
斎藤次郎一直線上の 視界の 上に『共犯の回路』とゆー一冊の本であり、
この本の「あとがき」には、「渋谷陽一がロック批評誌『ロッキング・オン』を1972年に創刊した」ことを希望としてふれていますよね。
ですから、中野さんの疑問は、論理の親だす。問い(?)「渋谷陽一は寡黙であると思うことについて」に私が答えるとすれば、
「渋谷陽一は失語症の時代を超克しようとした」のであり、
そのために、「参加」のシステムを更新することに取り組み、
そのツールとして有効だったのが、間接「参加」としてのメディア、だった。
直接「参加」=ダイレクトだが、広がりに限界がある。
間接「参加」=ダイレクトではないが、広がりは無限である。
つまり、めぐり合うことへの切実さ。そこは、ロックにラブ・ソングが多い理由であり(=出典;久保AB-ST元宏『共犯幻想』収録「ロック論」より)、
デヴィッド・ボウイの「Gimme your hands」ですよね。

>イターナウはどんな音を出していたんでしょうか。

■あそこまで70年代『ロッキング・オン』にのめり込んでいた中野さんがイターナウを持っていない=聴いたことが無い、ってのも驚きです(笑)。
あの時代、いったいイターナウを聴いていたのは誰なんだろう?
そして、彼ら&彼女たちは今、何をして、何を考えているんだろう?
それもまた、
間接「参加」=ダイレクトではないが、広がりは無限である。

>久保さんは以前「ヒップホップこそが現代のパンクだ」といったことを書いておられ、全く同じ趣旨

■今朝の朝日新聞の読書欄の冒頭には、仮装通貨を「反権威のパンク精神が源流」と書かれていましたよね(笑)。
時代は、紋切り型失語症システムを更新→ふりだしへ戻る→のループかもしれません。
つまり、どんな時代でも、どんなジャンルでも、言葉によって「時代を超克しよう」とする熱は存在するが、その「システム」=「器」=「メディア」が課題、とゆーこと。
もし、闘うのであれば、単に熱量の問題だけで終わるのではなく、闘いのシステムを構築しなければ、連戦連敗のままです。

>ロックは変容しながら存在し続ける

■つまり、そーゆーこと。

見も知らぬ他人に解き明かしていくということでしょうか

■うん。

http://www.geocities.jp/kyouhanshinbun/index.html

 
 
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